ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

研究所としての役割

ライフストレスケア、ライフストレス人間学の創出。

そのための試行錯誤を生きがいにしてきた。

うまく説明することは出来ないが、少しずつ形になってきている。

この途上の不完全なものをどう扱うべきか。

完成を目指して、それまでは黙するのか。

研究所と銘打っているのは、教育機関のように確定した内容の流布ではなくて、途上を公開しつつ、様々な意見をもらって進みたいのだ。

ライフストレスケアの発展を望む


ライフストレスケアという新しい領域を拓こうとしている。

医療分野、臨床心理学分野など特定の専門領域の支援とは違って、生活上、人生上のストレスを扱うには様々な切り口の知識や経験が必要であり、十分に体系化されているとはいえない。

少なくともストレスを考えるときに他者との情緒的な関わりに属するものと、目標達成や業務遂行に関するものでは介入法が大きく異なる。

簡単にいうと、仕事の進め方、生活の送り方、物事の整理など、医学や心理学の範疇ではないものがストレスと関係している。

少なく見てもライフスキルの支援だけでは足りず、もっと具体的な知恵が求められている。

もちろん、治療モデルである精神科医臨床心理士は、それは個人の努力の問題であって、介入点ではないというだろう。

しかし、それを改善しないかぎり、ストレスは再生産されていく。

だから、ストレスケア領域は健康な方一般を対象とした広大なものになっていく。

多くの方がこの分野に参入して社会資源としても充実させていかねばらない。

それがどういうわけか、心理学分野に人材が偏っている。

本当にニーズがあるのか、なりたい人が多いだけなのか。

私はストレスケア領域こそ発展していく必要があると考えているひとりである。

もちろん、治療モデルとしての心理士の方の活躍を期待するものだし、それを否定するものではない。

探索のはてにあるもの

私たち人間は自分を含む環境を探索して「どのような行為によってどのようなことが起きるのか」を情報システムとして獲得して活用して生きる。

環境の広がりとともにシステムが変化していくが、これは知的なものではなくて、体験の中で獲得していくものだ。

その意味ではそれぞれが自分の住む社会において周囲の人と仲良くなり認められて役割を果たしていくなかで成熟していくものだろう。

聖賢がのこした人類の精神的遺産は哲学や宗教や道徳として残っているが、その本質はやはり体験の中で獲得した情報システムであると思う。

ただ、その環境が全体であり実在であり、そこで暮らしてはじめて獲得できるということだろう。

まずは、聖賢のように実在を前提にして暮らすものとともに生きる必要があり、仲良くなり、認められて、役割を果たしていく。

社会人一年生のように入門して道を進んでいくことになるだろう。

先行者との交響。自分なりの取り組み。そこから始まる。

社会人の場合は「大人」になるというテーマだったが、実在との関わりにおいては「本当の人間」になる。

それは主体性の伸展によるが、その極致といってもよいだろう。

聖賢の教えにヒントは満ちている。

あとはやってみることだ。

それを他者に伝えるためにどのように表現するかは次の課題だ。

しかし、このような提案は科学全盛の時代、宗教ではないか、スピリチャルだろうと否定されるかもしれない。

集団で同じものを信じようと強制する話ではなくて、逆に主体性の先に実在に向き合ったとき、先人を頼りにしようという話だ。

いかに生きるかという人間学のテーマに迫っているのだ。

現代社会では価値観とは、自分のやりたいことと同一視されている。

それも間違いではないが、自分のやりたいことをするために生きるという答えが本当に人間の生き方なのか。その先はないのか。

それを探求しているのだ。

社会を探索すること

私たちは「どのような行為によってどういう結果が得られるか」その探索行為によって自然界のことわりを知る。

同様に社会の一員として仲間となって認められて役割を果たしながら社会での生き方を知る。これも探索行為になる。

後者が前者と異なるのは、他者とのつながりがないと探索が成立しないことだ。

特定の社会に紛れ込んだ「異邦人」がその社会の人と交流をしなければ、どう生きていいかも分からないだろう。

さらに人生の探索となると価値の世界の話になるが、どのような価値観で生きればどういう結果になるか。それは自分の一代では確かめようもなく、人類が世代を超えて、聖人、賢人と言われる方に導かれて得た「人類の精神的遺産」をどのように継承するかと言うテーマになるだろう。

この生物的な一代性を超えたところに価値の世界はある。

生命、生活、人生というライフにおいて、探索して発見した「情報システム」があって、それに従いつつも、自由な選択を繰り返して、全体のバランスをとっていく、制御の力、コントロール感、主体性の力が大切になる。

いかに生きればよいかという人間学は、概念としての答えがあるのではなくて、情報システムの制御の熟達のことである。

このテーマにむけて、私自ら探索行為を続けていきながら、他者の探索を支援していきたい。なぜなら、それぞれのライフがあって、この実在の世界は探索の仕方によって得られるシステムが異なるからだ。打てば響くが、打ち方によって響き方は異なる。

その分野にも専門的な支援の領域があってしかるべきだ。

私はそれをライフストレスケアと呼んでおり、暮らしに活かすやさしい人間学でもある。

久しぶりのブログ

このところ私の専門についての取り組みでは研修の資料制作以外では、Twitterへの書き込みをするくらいだった。ライフストレスケアの着想を断片として書き連ねてきた。

どこまで進んで、どこからが未開拓なのか。それも分からずに同じところをぐるぐると回っているようにも思える。

公認心理師が大量に登場していく社会にあって、私のように心理主義を離れて、心身相関、さらには自分を含む環境を情報システムとしてとらえて、そのバランスを制御していくための支援を志している者にとって、独自の領域を確立するにはどうしたらよいのか試行錯誤の連続だ。

相談者はときに自分の心の内を語りたくなる。過去から現在までの物語をどのように位置付ければよいのか、自分という存在を保全しようとして一貫した説明方法を見つけたいのかもしれない。

それが仮に現在抱えている問題の原因になっているのだとしたら、関心を持たないほうが不思議だろう。

しかし私にはそれが罠であると感じられる。そうやって過去を想起しつつ解釈を重ねているとき、他者の心を推測して出来事を叙述していくときに、次第にそれがひとつのシステムとして固まっていき、その延長で未来を考えるようになる。

私はそれが過去に対する解釈、他者に関する解釈によって、必然として様々なことが決まっていくことを求めているようで、自由に感じ、考え、行動していく主体性の世界とは対極にあるように思えるのだ。

それに対して自らが体験として環境を探索して獲得してきた情報システムは似て非なるものだと考えている。当面、この説明をていねいにしていくことが大切だろう。

私たちが大切にしている生き方である、本当の意味で他者の存在を認めるには、自らがすべてを自分事として取り組んでいる主体性のある人間でないといけない。そうやってはじめて、独立自由な人格をお互いに認めることができるのではないか。

 

ストレスとストレッサーについて

今回は基本となる狭い意味でのストレスについて説明をしてみます。

動物実験から始まったストレス研究では様々な不快な刺激をストレッサーと呼び心身(体内・脳内)に発生した負荷により自律機能(自律神経系・内分泌系・免疫系など)に不調和(歪み)が生じることをストレスと呼びました。

自然界では不快な刺激があったときにはそれを取り除くために闘うか逃げるかで対応しますが、そのときには普段より強力な力が出ますのでストレス反応は生存に役立つものです。

しかし動物を拘束して不快なストレッサーをかけ続けると、そのストレス反応は活用されることなくエネルギーが浪費されて最終的には抵抗力がなくなり死に至ることが発見されました。

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また人間の場合には不快な刺激の中に物理的、化学的なものだけでなく心理社会的ストレッサーがあるとされました。

つまり社会生活の中で集団内での関わりや他者との交流が不満や不快感を与え続ける場合にストレッサーになって闘うか逃げるかのストレス反応が起きているというのです。

筋肉の緊張が高まり呼吸数、心拍数、血圧も上昇しているのに社会生活のルールがありますから動物のように実際に相手と闘ったりその場から逃げたりすることは許されません。

このままでは拘束された動物のように人間もストレスで死に至ることがありえます。(キラーストレス

そうでなくても、心身の病気、事故、能率低下、人間関係の悪化、幸福感の低下など様々なトラブルに襲われることになります。

 

そこで心理社会的なストレッサーに対応した思考、行動、人間関係の対処法(ストレスコーピング)や蓄積したストレスを軽減させる方法(生理学的リラクセーション)に取り組むことになります。

ストレス蓄積を測定し環境を望ましい状況に調整してストレス対処に取り組み、リラクセーション法によってストレス解消をすることはストレスマネジメントの基本とされました。

 

しかし広義のストレスケアであるライフストレスケアでは、そのように心理社会的ストレッサーを避けるという観点でとらえるのは問題だと考えています。

本来私たちは自分らしいライフ(生命・生活・人生)を創造していくために積極的に人間関係をつくり社会参加をしていく存在です。

そのように前向きに生きる者には思い通りにならないこともありストレスとなりますが、それは生きるうえで当たり前のことです。

むしろそのストレスによって生き方の偏りを見直したり、自分に不足しているスキルに気づけます。

ここからストレスをサインにしてどのように生きるかという人間学が誕生するのです。

 

ライフストレスケア人間学とは何か

ライフストレスケアとは新しい言葉です。

従来の狭い意味でのストレスケアに比べると、かなり広い意味をもったストレスケアです。しかも私たちの生き方に関わるので人間学の分野になります。

生き方といったときにLIFE(ライフ)という英語を考えてみますと、生命、生活、人生、あるいは魂の救済という意味もありますが、それだけ私たち人間存在は広がりをもっています。

現在の科学的な知識は役には立ちますが、細分化されていて、部分的に良いといわれることを集めても全体としてどのようなライフになるのか分かりません。

皆さんも健康によいとか、人間関係に役立つとか、成功するとか、そのような知識を集めておられると思いますが、全体を考える視点はおろそかになっていないでしょうか。

現在社会ではある面ではうまく行っているかもしれませんが、別の部分の弱点に負荷がかかり過ぎてストレス被害が生じています。部分最適は全体の最適にはならないのです。

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その意味でライフストレスケアは、ライフ全体のストレスをサインにして、どのように生きることで全体のバランスがとれるのかを考察して実践していく知恵の体系です。

高尚な哲学ではなくて、暮らしに活かすやさしい人間学を目指しているのです。

キーワードは自由と主体性です。

すべてが変化して移り変わっていくなかで、固定されて不自由になっているものが歪みとしてのストレスを生み出しています。そこで自由度を高めて主体性を発揮していく実践を勧めております。

現状では心の悩みや身体の不調、具体的な問題を解決するために、医学、健康科学、そして心理学が活躍している時代です。

このライフストレスケアはそれらの行き詰まりを切り開くためにつくっている次世代の人間学です。

先をにらんで準備しているのですから実践する人は少ないかもしれません。

しかし必ず必要になるときがくると信じています。

よかったら学んでみて実践していただけませんか。