ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

世界に込められた精神の広がり

心とは自分の内部にあるのではなくて、この世界そのものに込められていると書いてきた。

内部という想定もまたやめたほうがいいとも書いた。

では、この世界に込められている「精神」は、はたして自分の心だけなのか。

あるいは、そもそも、自分の心とはどのようにして成立してきたのだろうか。

哲学的には独我論ということになるかもしれないが、私の世界は私そのものであって、あなたの世界はあなたそのものであって、同じものではない。

平行宇宙のように、ともに暮らしていても、ことなった世界に住んでいる。違ったものが見えて、違ったように聞こえている。

とはいえ、社会生活を営むうえで、共通部分をもち、時間を同期させて、お互いの世界を重ねて暮らしている。

このような説明に違和感を持つ人がいるかもしれないが、生物全体を考えると、おかしくもなんともない常識である。

モグラとこうもり、ノミ、鳥、樹木、猫、蛇などが、自分の感覚で必要なものをとらえて、自分の求めるものが得られるように構成した世界、それがどれほど違っているか、ちょっと想像してみるとわかるだろう。

それが、こうして、重なって暮らしている。

こうして、他の生き物の世界、他者の世界、過去の生き物、人間、未来の生き物、人間など、様々な視点で、この目の前の世界の事物を見ると、そこは、けっして、原子、分子など物質で、均一にならされた世界などではなくて、さまざまな世界の合成であり、精神の重なりであることが理解できると思う。

原始時代の「アニミズム」を愚かなことだと現代人は笑う。様々なもの、生き物に精神を見出してい、ともに生きているという感覚をおかしいという。

しかし、それがおかしいとすれが、すべてを物質化して、それにふれている自分の内部に心があるという現代人の価値の世界の貧しさはどうだろう。

この家や土地に祖霊を見るという考えはおろかだろうか。この国土に先人の精神を見るのはどうか。聖なるものを守ってきた人々の系列の精神の豊かさを、目の前の一つに石造にみるのは、愚かなことなのか。

こうして、精神的な視力が高まっていくと、この世界は、生命に満ちたもの、精神の糸がおられた織物のような美しいものに見えてくるのではないだろうか。

価値観や意味の世界、物語が大切だということには、多くの人が気づきだしているが、それをどうやって見出したらいいのかについては、述べられていない。

それもそのはず、その価値観、意味、物語もまた、内的シュミレーションの世界、内なる心の中にあるとされたために、各自、そこをみつめてみるのだが、そこにあるのは、他者のまね、比較による競争、単純な個人的欲求、不安と悩み、自分中心の向上心であって、社会共同体的な感性、意味、価値をみつけることはできない。

結局、それらは、そこにはない。この世界、つまり自分自身が創っている世界、そこに込めらている。そして、そこには他の生き物、先人、聖なるもの、すべて精神がこもっていて、孤独とか、孤立とは違った世界なのだ。

孤立の物語もまた、物質世界と自分内部の心という図式が生み出していることに気づかねばならない。