ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

自我は他の精神に誘われて開く

自分が見て、聞いて、感じている世界そのものが自分が創り出しているものだと書いてきた。

願望世界、シュミレーション世界、三次元時空などの言葉で表現してきたが、自分が知っているもので構成した、自分が求めているものを反映した、生きるために構築した世界である。

それぞれの生きものが、自分の生存のために、必要なことを知ろうとして、不必要なことは知らないこととして、それぞれの世界を構築していながら、こうして、それぞれの世界を重ねながら、統一的に連続して、有機的な連関をもって、お互いに生存を支えあっていること。

このモデルと同じように、人間社会もまた、それぞれが知っていることをもとにして、それぞれが求めるものを反映して世界を創造している。社会もまた、統一的に連続し、有機的な連関を持つために、言葉の力を駆使して共通するものを生み出して、三次元空間を設定して、「物質」というだれにとっても同じものがそこにあると観念することとなり、動きを調整するために、共通の「時間」を生み出し、それぞれが同期することとなった。

そうなると、本当はそれぞれの世界こそが実体で、共通部分については仮想であったはずなのに、それが逆転して、共通部分である物質が実体で、精神は各自の中にあるものとされた。

そして、その精神がこの世界を映し出しているという意味で、自我はそれぞれの世界の映し鏡のようなものとして、それもまた実体だと考えられた。

この自我は自分を世界の中心において、しかも、世界と自分を分離、分断して、世界に対して、求める存在である。自己中心的な欲望の姿をとるのは、その方が利己的という意味ではなくて、自我の構造から生まれるものだ。

この自我は、未来にむけて求める存在として、時間もまた実体とされて、シュミレーションが生きることだとされてしまっている。

古来、この自我を開くこと、自然や世界、社会、他者に開くことを聖賢は求めてきたが、このような図式のなかで起こりうるものではない。

では、自我はどのようにして開かれるのか。

それは、まず、自我が世界の映し鏡であり、本当に自分を知りたければ、世界を観ることだと気づくことだ。もちろん、他者を見るような視点で自分を内省すれば、そこに「自我」をみたような気になるが、それは内的シュミレーションにすぎず、コロコロと変化して、実体がないものだし、そこでは決断も、意志の力も働きようがない。

外界をシュミレーションしながら、他者をシュミレーションしながら、その追求が自分と思われるもの、実体は「記憶」であるが、そこに及ぼしただけであって、そこには混乱しかない。

世界のなかに自分を発見できないものが、そのゆがんだ映しである自分を外から見た視点において、自分を発見できるはずがない。

自我は、世界の映しであることを認めて、その世界のなかに精神や生命を見出していくと、そこには自分に呼びかけている声がある、自分を誘っている思いがある。

それに従っていくときに、世界と精神が豊かになり、自我もまた自然に開かれていく。

太陽が単なる物質的な燃える星なのか、自分を生かし導いている精神の根源なのか。

そのような視点の変化なしに、自我はいくら掘り下げて、変容をせまっても、なにも変わらない。

むしろ、内的シュミレーションが蚕のはく糸のようにぐるぐるまきになって、それを自分だと思い込むことになるだけだ。複雑さを実体だと誤解するだけだ。

私は、このような現代人を前にして、カウンセリングが無力であるだけでなく、相性が悪いし、自我を肥大させるだけだと思うようになった。

その意味で研究が必要だと立ち止まっている。

物質の正体を見定めて、自分が生きている世界に生命を見出すこと、精神を見出すこと、つまり多用な世界の重なりを見出すこと。

この記事で、地球上の生物について、それぞれの世界があることは、現代人にも理解しやすいと思って書いたのだが、それでは、聖なる土地、聖なるもの、自然石、川、海、そして、地球、太陽など天体、宇宙というふうに、われわれが単なる物質だとみなしているものを中心にして、それぞれの物語、世界があるというふうに理解することは、難しいかもしれない。

しかし、繰り返しになるが、自分の世界では聖なる石も太陽も精神そのものであって、その精神を抜き去って脱色したものが他者と共有できる物質だと説明してきた。

自分にとっての世界をリアルだと考えるのであれば、太陽の精神性もまたリアルである。

さらに、太陽からみた自分、太陽の世界と重なる自分の世界という見方。

宇宙の大きな物語と、自分の小さな物語の関係性。

このようなことを自分のなかによみがえらせること、他者のなかに蘇らせること。

自分の世界において、太陽がどのように見えるか。その精神性が重要である。