ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

自分の世界の記述

私の世界にあって太陽がどのようなものか。

雨がどのようなものか、風がどのようなものか。

精神を抜きだって脱色されて、物質だとみなされたもの。それらが私の世界のなかにあっては、物と精神に分かれるまえの実体としてそこにある。

物をみて、私の内部に精神があるのではなくて。

このような観念を強めていくと、私を記述するとは、私の世界を記述することだときづく。

私を知ることは、私の世界を知ることだときづく。

私の世界のなかに、他者がいる、先人がいる、それもまた、私の世界の精神が裏打ちしている。

他者のなかに私をみることになる。

こうして、ていねいに、世界を記述していったとき、私はすべてとなる。

もちろん、私の世界のすべてではあるが。

しかし、このように書くと、「それは自分が思った他者の姿であり心だから、本当の他者ではない」「聖なるもの、大自然、太陽など」に精神を見るといっても、それは自分の精神であって、それらの本当の精神ではないので、思い込みではないかと反論があるだろう。

他者の心のシュミレーションが生きるために必須と考えている現代人の指向性からすれば、すべてが自分の精神であるという落ちどころはとうてい許せないだろう。

しかし、太陽の心、大自然の心、他者の心、太陽の世界、大自然の世界、他者の世界。これは自分にとっては不可知の世界であり、平行してあるにはあるが、知りえない世界なのである。

自他分離の三次元時空のくせで、自分の中に心があり、他者の中に心がある、それをお互いに知っていきていくと思っている立場からは、納得できないだろう。

自分の世界において、この不可知の存在からはメッセージがやってくる。自分の世界のなかでの異物として、そのような意味では私たちは自分以外の世界を知りうるときがある。

ここから、トランスパーソナル、自我超越の世界では、偶然はなく、すべての出来事に意味があり、導きがあると考えることになる。

しかし、それとても、自分の世界のなかで起きたこととして記述されるのだから、自分の人生の完成とは自分の世界の豊かさ、完成であり、他者の世界のことではないことがわかる。

自分の世界が黄金世界となること。

以上の記事は、利己的なものに思えるだろうが、すべてが自分であるという立場から、それは利他的な行為のように見えるはずだ。

自分の世界で起きたことの責任を自分でとるということ。自分の使命を果たすということ。

それは世界のなかにメッセージとして込めらえている。