ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

意志と行動化の「拡張」

自我を前提にしてモデルでは、自分の内面の欲求、動機があり、外部世界に誘因となる対象、目的、目標があり、それをつなぐものとして「行動」があるとされている。

その意味では、すべての行動は自分の欲求をかなえるためのものである。

このような文脈では利他的行動がなぜ起きるのかという問いが生まれる。

遺伝子の存続、細胞の存続、個体の存続、集団の存続という「存在レベル」の上昇につれて、他を生かすことがひいては自己をいかすことになるという関わりが発生して、ある意味、遺伝子的なプログラムを超えて、利他的行動の自由を選ぶこと、利己的行動の自由を選ぶことができるようになる。

生命、生活、人生という階層における、行動の最適解の変更といってもよいかもしれない。

しかし、この視点では、どこまでいっても、自己利益の手段としての利他であり、自己利益という意味の深まりによって姿が異なるようにみえるだけということになる。

一方で、自我中心モデルを捨てて、この「世界」が自分である。すべてが自分である。という立場では、世界内の個体としての自分はあるにはあるが、それをこえてすべてもまた自分であるということになる。

ここにおける「行動」とは、どのようにして生まれるのか。

それは外界に込められた「精神」からの誘い、呼びかけ、導きによって起きると考えてよい。

そして、それは世界内個体としての自分の利益につながることは当然だが、生存しないといけないので。

しかし、それをこえて、世界の呼びかけている使命に応えるものとなるだろう。

そうなると、自我の内部での欲求の葛藤、欲求不満として記述されていた行動の矛盾は、いまや、世界内の精神の呼びかけの葛藤、精神の呼びかけに対して無力な自分という図式になってくる。

このような世界創造をしている自分と、世界内個体としての自分を整理して考えないといけない。

世界内個体というのも仮想である。三次元時空としてのシュミレーション世界の中心、行動点としてのカーソルのようなもの。

そして、そのなかに心があると仮定すれば、ちょうど他者の心をみるようにして、自分の行動、言動、感覚などの記憶からシュミレーションするしかない。

自我とはそのようなものである。

それに対して、世界創造の自分とは、「分霊」といってもよい。

自分の世界に対して責任を持つものである。

そこには、世界に対する意志がある。

個体のなかに欲求をみるのか、世界に対する分霊としての意志をみるのか。

このような議論は宗教的と考える人もいるかもしれないが、そうではなくて、思考法、認識の型の問題である。

宗教とは、世界が三次元時空としてすべてが物質化していったときに、それを失わないようにと、特定のカプセルに閉じ込めたようなものであるが、集団によって保持されているもので、それらのメンバーが物質化した思考になっていくと崩れ去ってしまう。

そのような宗教としてではなくて、各自の認識の型の変容として、この記事は書いている。

かつて、科学的思考が出てきたときも、それは認識の型の変容であったのだが、それを包んだうえでのさらなる変容について書いているのだと理解してもらいたい。