ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

死と世界

三次元時空を実体として観る場合には、自分が死んでも、自分という小さな個体が消えるだけで、あるいはその内部にあったと思われる「心」が消えるということで、自分の死後にも、世界はそのまま残っていると考えるだろう。

三次元時空は、自分が分霊として生み出している個別の世界であって、自分が死ぬとこの「世界」も消えてしまうという観方もある。

ここで考えないといけないのは、この三次元時空は、自分が知っていること、必要なことで、構成したものであって、その背後には、知りえない世界、つまり「不可知の世界」「存在の根源」「大きな自然」「大きな物語」があるということだ。

その意味では、自分の死によって、この三次元時空が消えたとしても、その不可知の世界はあり続けているということ。宗教ではこの世界のことを様々な表現で呼んでいる。

そして、この不可知の世界は、自分が死んでからあらわになるものでもなく、今、生きているときに、この三次元時空を裏打ちするものとして在る。その意味で存在の根源と呼んでいる。

素朴な生き方としては、この三次元時空を実体だと考えて、その世界のなかにある自分という個体を保存して発達させて、健康で幸福に生きていけばよいということになるだろう。

しかし、そうなると、個体がもつ欲求をかなえるために、他者や事物を動かしていくという生き方になり、かつ、それが他者も同様であるとするならば、そこには闘争が生まれる。

その意味で、集団の存続、そのための個人の欲求の制御、抑制という利他的生き方が求められてきたし、自然相手の場合には、個人の欲求をかなえるには、自然に順応し服従するしかないので、この素朴な生き方は、慣習、習俗、伝承、道徳、法律、宗教などによって、つまり、それらの「認識の型」を各自に教育することでうまくいっていたということだ。

問題は、個人の欲求をかなえるという三次元時空でのフィクションがそのまま追求されて、科学技術の発展、市場経済、資本の蓄積によって、先進国では強大な力となって、共有されていると共同幻想されているこの三次元時空は、外なる自然、人間の内なる自然もゆがめられ、集団のなかでの闘争は、自由競争という名のもので合理化、正当化されて、ストレス社会という文明のあだ花を生み出している。

ここにいたって、さまざまな対症療法的な解決法が提案されており、私もそれを研究し、普及してきたのだが、根本的な問題に視野を広げざるをえなくなったということだ。

ひっくりかえった世界の観方を真実のものに移していこう。

この世界が自分が創造しているものだとしたら・・(この場合の創造は、創造神のように無から有を生み出すのではなくて、自分の言葉によって、願望、価値観によって構成しているという意味である)ただ、創造を担っているという意味では、神という大きな霊の一部であるという意味で「分霊」と宗教的には呼べるだろう。

もうひとつ、仮に、この世界を構成しているのが自分であるとするならば、その自分はこの世界の中にはいない。そして、この世界の外とは、すでにこの記事の冒頭でのべた不可知の世界、存在の根源の世界ということになる。

私たちは、自分の本当の故郷を忘れている。

死して帰るところであり、今、こうして生きている間も、そこにあってこの世界を創造している場所、それが自分である。

このような哲学的な思弁が生きていくうえで、何の役にたつのか。

それはすでに述べた、習俗、慣習、道徳、宗教が、あまりに強大になった人間の力、それも欲望を満たそうとする力を抑えきれなくなった現代において、この「認識方法」が解毒薬になると考えるものだ。

かつては、神に救われる、神に近づく、悟りを開く、解脱する・・というふうに、一部の人間が取り組んで、世界をゆるやかに導こうとした取り組みであったと思うが、いまや、私たちすべてが自分たちの生存のために、幸福のために、それぞれ取り組まないといけない、認識の変容、生き方の変容の道だと考えている。

目を閉じるだけで、耳栓をするだけで、この「世界」は消えていく。

自分が死ぬということは、この自分が育ててきたかけがえのない世界が消えることだ。

三次元時空は、存在の根源からみれが仮想でありフィクションだが、この時空のなかには、たしかに自分の世界、人生が残っていく。そして、次の人たちの世界をつくっていく。

これは、悟りの目からは、いまわしい、輪廻のように見えるだろうが、素朴な生活者としては、連綿とつづく「人間の生」のありようである。

こうして、記事を書いていても、観察のしかた、見え方、認識の型によって、何が仮想で、何が真実かは、かわってしまう。

どれが正しかではない。これらの観方を整理、統合していくこと、使いこなしていくことが大切だと考えている。