ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

相手の世界を信じる

最近、同じことの繰り返しばかり、記事にしていると思う。

それは、これまでの「自分」のとらえ方の癖が簡単には変わらないことを示している。

だから、訓練のように繰り返し、気づいては書き、気づいては書くという繰り返しになっている。

ということは、一種の言い聞かせであって、本当の意味では自分を納得させていないということ。

つまり、いまだ、よくわかっていないということになる。

この三次元時空は、他の生物とは異なった人間特有のもので、かつ、私独自のものとして、構成されているということは納得している。

そして、そのような生き物ごとに、個人ごとに多様な世界があるのだが、人間は集団生活をするために、社会に生まれおちたときから、「共有」「共同幻想的」に学習して、三次元時空、つまり物質世界を仮想ではなく、実体だと思い込んで暮らすようになったこともまた納得している。

ただ、この物質が仮想であって、本当は精神である、精神と物質に分かれる前の出来事、関わりであるということは知的には理解していても、やはり、従来のように見えてしまう。

この原因は、この三次元時空、シュミレーション空間にいる「個体」としての私、身体という物質が私であるという思い込みから離れられないからだ。

全体の世界から、自分という個体を切り取って、それが私だということになると、その残りの世界もまた、分割されて、物質の集まりになっていく。

この自分というものをどう考えるか、認識の型、つまり生き方が変わらないと、この時空の見え方も変わらない。

私は、この「世界」を構成し創造している者であるとするならば、この世界の内には存在しない。

この世界の外とは、多くの生物、他者の世界の外でもあるが、それは不可知の世界、存在の根源、大きな生命、大きな自然である。

世界の創造者としての私はそこに居る。

一方で、この三次元空間の中の肉体の作用として脳が心を生み出しており、自分という自覚、意志、欲求、認識世界も、この脳の中で生まれているという考え方がある。

その意味では私とは身体という物質であり、その作用としての心である。

この二つの立場のどちらに立つかで、世界の見え方は変わる。

一方が宗教的、哲学的であるのに対して、他方は物質的、そして科学的だとされている。

私は、この科学的人間観の行き詰まりについて書いているのだと気づく。

科学的人間観では、他者もまた物質であり、その脳の作用が心としてあることになり、それは知りようのないものだ、その意味では不可知であり、予測、シュミレーションを重ねて修正しながら関わっていくものになる。他者を信じるという意味は、ここでは予想する、期待するという意味になり、それは裏切られることになる。

上記の宗教的哲学的人間観では、他者とは自分とは異なる「世界」の構成者であり創造者。そして、それは自分の「世界」と重なっている。

自分という存在の根源は不可知の世界にあると書いたが、他者も同様であって、その意味では、そこでは自分と他者は区別できない一体のものかもしれない。ひとつの球体の見え方の違い、きらめきの違いに過ぎないかもしれない。同じ精神の故郷の者だということになる。

そして、他者を理解するとは、自分の世界に出現する違和感、想定外、異物的な相手の言動であって、それによって相手の世界が自分とは異なるものであることを知ることになる。自分を知ることと他者を知ることは同義である。

私は相手の世界の登場人物として自由にふるまうことで相手の世界を変えていく。相手も同様である。お互いがお互いの人生、世界の登場人物として、お互いの人生を豊かにしている。

登場人物には、よいひと、合う人だけでなく、悪縁もあるだろう、衝突もあるだろう。そうして、お互いがドラマを充実させている。

他者を信じるとは、自分の世界創造、世界構成において、他者とどのようにかかわるかという自分の決意のことである。相手の言動によらず、自分がどうしたいのか、その意志を信じることだと考える。

もちろん、この考え方は自分という個体が相手という個体に対して抱くこともできるが、相手の世界を信じる、相手の人生を信じる。相手の精神の故郷を信じるという点が異なるだろう。

まとめになるが、自分を科学的な見方で把握すると同時に、それを包み込むように、哲学的、宗教的味方でつかんでいく。

その実感をどのようにして得ていくかが課題だろう。

それは、自分の世界のなかの「不都合」「不快」「違和感」「異物」「想定外」「偶然」と思える出来事を、自分という個体を苦しめるものとして観るのではなくて、自分の世界が、存在の根源からゆすぶられているのだと観念すること。

つまり、私の「世界」が「存在の根源」「不可知の世界」「大きな生命」「大きな自然」につつまれているという実感がスタートになる。

物質にみえる他者、太陽、雨、地震、それらを裏打ちしている精神、いのち、魂に気づいていくこと。

古来、彼岸とよばれ、涅槃、仏国土神の国と呼ばれてきたもの。

それが今、この自分の世界を包んでいるという実感。

それを宗教的教理で、自分に言い聞かせるのではなくて、生きるなかでの実感として得ていくこと。

それによって、物質だけのこの世界が精神的なものとして輝いていくのだろう。

いまだ、私は、そこには至っていない。