ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

精神の故郷

意味ある人生を送り、日々を快活に送るには、自分の生き方を見直す必要があると考える。

私たちのまわりには、そのような情報があふれている。

しかし、本当に問題にしないといけないのは、その「自分」とは何者であるか、である。

ここで述べてきたように、自分とは、この身体、そしてその中の脳が生み出した「心」の総体だと考えて、はたして、どのような生き方が生まれてくるのだろうか。

たしかに、この身体は遺伝子によって連綿と続いてきた生物の、人類の歴史の先端にあり、さらには、自然界の有機的連関によって支えられている。

だから、自分とは自然と主体性の合成であると考えられる。そうなると、私たちは、自分の内部、外部の自然を調和させるように、主体性を働かせることが大事ということになる。

病や死も、自然の必然として受けれていくという精神性。つまり、自然の摂理のなかに自分を置くということは、社会の子、文明の子であっても、自然の子である生き方に従うべしという結論になる。

一方で、自分とは、この三次元シュミレーション時空のなかにある個体ではなくて、この「世界」自体が自分が構成して創造したものだと考えるとどうなるか。

そうなると、自分はこの世界の中にはいない。

むしろ、この世界を裏打ちしている、不可知の世界、存在の根源、大きな生命、大きな物語のなかにこと居るということになる。

私の「精神の故郷」である。この世界は彼岸、涅槃、如来仏国土神の国などと呼ばれてきたものだが、宗教色を抜いて考えると、存在の根源ということになる。

仮にこれこそが自分を表現しているのだとすれば、他者もまた別の独自の「世界」を生み出しており、その背後の不可知の世界に精神の故郷をもっていることになる。

そうして、この三次元シュミレーション時空にあっては、それぞれの世界が平行宇宙のように重なっていて、自分の世界では他者は登場人物、他者の世界では自分が登場人物という関係で、お互いにそれぞれの世界に影響を与えている。

しかし、根源の不可知の世界、存在の根源の世界においては、自分と他者は大きな生命、大きな自然の一部として、分かちがたいものだと推測される。

仏教では、このような事情を、すべての人間に「仏の種」がある、すべての人間が成仏する可能性があると説いている。

もちろん、現代人にとって、悟りや成仏が生きる目的にはならないかもしれないが、自分が何者であって、精神の故郷がどこにあるのか、その違いによって、生き方が変わっていくのではないか。

この世界に起きていることは、自分と無関係ではない。自分の姿だと考えてよい。

あるいは、すべての事物の背後には、生命があるということ。

自分も物質であり、他者も物資、すべてが物質であるとする世界では、仮に関係性を自覚しようとしても、その連関は分断されてしまっている。

物質の世界、すべてが分子や原子に還元される世界。それも世界の観方のひとつであるが、人間の生きかたを支える意味では不十分である。