ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

三次元シュミレーション時空

無意識的に生み出し続けている「三次元シュミレーション時空」

人間の生活にとって、便利なものである。情報空間といってもよい。

しかし、この時空を絶対視して生きると、自分とは個体という物質であるという結論になってしまう。

ここからどのような生き方が生まれてくるだろうか。ちょうど市場経済で、よい「商品」、高く売れる「商品」を目指すように、社会のなかで評価を得ることが生きる目的になってしまう。

他者評価の世界。物や商品は、自分で自分を評価しないから。

また、自分の心が、この個体という物質のなかでも「脳」という器官が生み出したものだと考えると、自分のなかから湧いてくる「欲求」こそが自分であると考えるだろう。

やりたいことをすることが生きる目的になってしまう。社会規範がくずれ、このやりたいことに、抑制や制御がかけられなくなると、自己破壊的、社会破壊的な生き方もまた生まれてしまう。

個が生存するのは、集団を維持しないといけないという「自己保存」しか、訴えかけるチャンネルがないのではないか。

このような時代にあっても、感性の世界で真実を探っている者は、自分を物質であり、欲望だとは思わない。様々なつながりのなかにあって、豊かに生きようとしている。

そのような精神の故郷からイメージや感性の姿で伝えられているもの。それに多くの人が気づいてきている。

それを思考の型として、行動の型として、あたらしい生き方として、まとめようと私はしているのだときづく。

三次元シュミレーション時空が悪いのではない。それを絶対視したことが問題だ。

この世界を裏打ちしている世界のことを忘れてしまったから、否定してしまったから、自分という存在がこの時空のなかに閉じ込められて、物質化してしまった。

日々あらたに生きたいと思っても、この時空においては、すべては繰り返しになってしまう。知っていることで構成した世界だから、願望によってできた世界だから。

仏教では、この三次元時空を砕くために、様々な説明をしてきている。

無常、無我、空という考え方も、そうである。

そこに「車」があると私たちには見えるが、それは様々な部品の集まりであって、それを崩していくと部品が転がっていても車は消えてしまう。また、車に羽をつけると、車ではなくなる。

私たちの世界は、関係性によって、実在だと見えているだけだ。知らない者にとっては、車は奇妙な鉄の塊だ。

意味世界、情報空間、であるのだが、それを物質世界、実体だと見てしまっている。

このように毎日、書いている私にも、その見え方がしみついていて離れられない。

ここから、再出発しようとしている。