ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

専門的援助に従う落とし穴

わたくし事になるが、親の病気やケガで病院とかかわっている。

治療、リハビリという目的にむけて、様々な取り組みがあり、本人も、家族も、それに従って、気持ちが追い付かないときもあるが、健康、生命がかかっているので、服従して頑張っている。

このようなときに、だんだん、専門家の指導、つまり、医師、看護師、ワーカー、理学療法士、それぞれの人の発言を受け入れていくのだが、次第に、こちらの主体性は失われていく。

もちろん、説明をうけて、サインをして、選ぶという手順はあるのだが、選択肢はせばまっており、選ばざるを得ないといった感覚で、人生上の主体性は感じることができなくなる。

生老病死という苦は、現代では、専門知識、技術、専門家によって、扱うものとされてきて、自分の人生の問題として向き合おうにも、頭のなかでは指示されたことを全うすることに一生懸命になり、何が人生で大切なことかなど、忘れてしまうことになる。

私は、自分の心がそうして固くなっていったとき、合理的選択と、専門家の指示に応えて、実践していくときに、得体のしれないストレスを感じていることにきづく。

病気を治すために、生きているという逆説。

病気を治していくプロセスのなかで、どのように生きるのか。

この家族と本人に残された大切な時間をどのようにして過ごすのか、それが忘れられたとき、生きる意味が失われるのだと思う。

この三次元時空で、身体という物質、脳が生み出している演算が心であるとするならば、この身体や演算機能の修理こそ、自分を守ること、優先事項になる。

しかし、自分とはこの三次元時空全体、そのものであって、さらには、その故郷は、背後にある不可知の世界、存在の根源、大きな生命、大きな物語であるとするならば、肉体保全だけを考えて、人生を失うこと、自分を見失ることは、滑稽なことだろう。

ありがたいものである。前者の妄念にとらわれているとき、私は自分の魂が圧迫されたように、疲労し、活力をなくして、たいへんなストレスを感じている。

主体的に生きるとは、このような自分の広がりを意識したものでなくてはならない。

日常のなかで、それを見失わないこと。

医療を例にして書いたが、お金に対する執着、名声を求めること、仕事中毒になること、趣味に耽溺すること・・・これらもまた、部分的には、人生を構成しているものだとは思うが、自分が何者であるかを意識していくと、疑問が湧いてくるテーマではある。

これからも、見つめなおしていくつもりだ。

そして、心理カウンセリングにしても、このような視野狭窄を生み出してしまう傾向があることを指摘しておきたい。

なぜなら、自分が何者か、という視点がずれているなかで、心理的援助を行えば、脳が生み出す演算、内的シュミレーション、内観的な心のありよう、他者の心を観るようにしてとらえた自分の心を相手に格闘する営みになってしまう恐れがあるからだ。

心が元気になれば、身体も、行動も、生活もよくなっていくという仮説の恐ろしさ。自分という存在を身体のなか、脳のなかに押し込めていく。

まとめていうと、広々とした人間観を日常生活に落とし込むことが重要だと私は考えている。