ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

自分を見つけること

私たちは、「人間斯く生きるべし」というような社会や他者からのまなざしの中で、それをできない自分を見出すことになり、そこで成長や変容を目指すことになる。

あるいは、自分のなかに、このような人間になりたいという願望があり、そうではない自分の現状を見出すことになり、そこから成長や変容を目指すことになる。

この「理想の自分」がはたして、どこから来たものなのか、それも考察してみたいことではあるが、ここで考えたいのは、理想と比較して見出した「現実の自分」についてである。

これが生物の「種」であれば、ウサギがライオンを理想にして、自分という存在を否定していれば、滑稽なことであるが、ウサギなりの生き方があって、それを身に着けないとするならば、生存はおぼつかないだろう。

この種の問題と、素質を磨いて完成させていくレベル・段階を混同してはいけないと思う。

世界に一つだけの花という歌のように、人間は、ひとりひとり、種類が異なるので、自分らしさをのばしていけばよいというメッセージもあるが、社会のなかでは、競争や比較によって、様々な能力を高めていくこと、つまり、上には上がいるという段階の問題であると考えられているふしもある。

そして、このコーナーのような人間論についても、自分をどのように見つけるか、そこに個人差、独自性、個性という視点と、人間共通の発達の段階があるという両方の観方が混じっている。

極論をのべて、私の意図するところを示してみたい。

たとえば、仏になった人が仏のようにふるまうことは苦痛ではなく、自然であり、必然だと思うが、凡夫、普通の自我充実の人間が仏のようにふるまうことはどうだろう。

凡夫が仏のように努力してふるまっていけば、仏になれるのだろうか。むしろ、そこには苦悩があって、恐れ多いことであって、凡夫なりに良い生き方をつらぬくことはできないのだろうか。

凡夫は凡夫なりに生きて、仏は仏なりに生きていく。それが自然なのではないか。

問題は、凡夫とは何か、仏とななにかをしっかりと知ることからはじまると考えている。