凡夫として生きる
面談をしているなかで、問題発生の原因を自分の人間性に求める人がおられる。
自分にもっと愛があれば、知恵があれば、勇気があればと。
しかし、それでは、今まで頑張ってきた自分、いま、あらがっている自分の力や努力を否定することになってしまう。
むしろ、現実の自分を肯定して、さらにそこから力を引き出していくことが重要だと考えている。
自分でないものに変身しようとする願望がどこからやってくるのか。
この図式をこのコーナーのよりよい人生を送るために、「人間の可能性」を伸ばしていくという場合に、「人間」をまるで超人や神や仏にでもなれるかに空想するのはいかがなものか。
これは、成長を否定して諦めよと言っているのではない。
凡夫は凡夫の存在としての価値や意味があり、仏は仏としての存在、価値、意味がある。
私が、自分をこの三次元シュミレーション時空のなかの物質としての個体とその脳の演算機能だと考えるのか、この「世界」が自分の独自性によって構成されたもので、ある意味、この世界こそが自分であり、その創造をなしている自分の精神の故郷は、この世界の中にはなく、不可知の世界、存在の根源、大きな生命、大きな物語にあるということ。
このような自分の定義の変更は、はたして、凡夫の話をしているのか、仏の話をしているのか。
あるいは、前者のように見えている状態を凡夫といい、後者のように見えている状態を仏というだけであって、同じものではないのか。
だから、肉体、個体中心の世界で凡夫として暮らしている者が、仏としてふるまうのは、無理がある。
また、仏としてふるまうのであれば、精神の故郷に自分があって、この世界をよきものにしていく取り組みをしているはずである。
このように、同じ水が、氷になったり、水になったり、水蒸気になったりするように、自分も変化するのではないか。
では、なぜ、凡夫は凡夫のままで、自然に生きていけないのか、仏の生き方が裏打ちしているのだろうか。
それは、この「世界」のありようからきていることだ。
世界が凡夫をつくり、仏をつくる。