科学的人間観を超えるもの
自分が何者であるかによって、生き方が変わると考えて、自分に関する探究について記事にしてきた。
しかし実際のストレス相談の場では、「私は何者なのでしょうか」という問いではなくて、どうしたら問題を乗り越えられるか、どうしたら苦痛がなくなるかという目的と手段の話になる。
また、最近よく聞くのが、自分のスペックを超えて要求されていることに対する不満である。自分には無理なことをさせられているとか。
あるいは、自分の内観によって得た、他者の心を予測する手法によって自分の心をとらえて、それを実体だとして、その問題を解決する方法を求める人。
すべて、自分がなにものか、どのような存在かは、横におかれていて、あるいは、問題にせずに、目の前、あるいは内面の問題をなんとかしようとする。
それが幸福に至る道であると考えているのか。
劣等感によって世界を覗くと、自分の欠点が重大なことに思えて、それがあるか、ないかで、他者を評価している、幸福の条件だとも見えている。そのような者は、その欠点さえなければと考えて、もがくだろう。
他者を喜ばせて、他者から好かれたり、評価されることに夢中になる者もいる。そして、そうした取り組みのはてに、その他者から冷遇されると裏切られたと考える。相手から何かを得ようとしていたのだ。それを幸福だと考えて。
でも、相手にも主体性があり、こちらがいくら尽くしても、それは得られない。
この世界には、よい結果がでるはずもない、幸福追求法が満ちている。成功の問題もここに潜んでいる。私たちは本当の意味で幸せになる道を知らない。
勝手に何の保証もないのに、それぞれが、これこそが、幸せに至る道だと信じて進んでいる。
それが自由だから、選択だから。
しかし、そこには、この世界のこと、人生のこと、自分のことに対する知恵が抜け落ちている。
なぜ、そうなるのか。
素朴な感覚的な生き方として、快不快、苦楽などをサインに進めばどうか。社会の仕組みを知らずしてすすめば、転んでしまうだろう。
無知である。知らないということが私たちを苦しめている。
しかし、私たちは多くを知っていると思っている。たくさんのハウツー、手段、理論、それを持っていると思っている。
私は、このような状況にあって、知っていると思っていること、できていると思っていること、よい方法だと思っていること、それが本当には幻ではないがと疑い、再度、答えを探している。
では、こう考えてみてはどうか。
私が疑問を持っている科学的人間観を正しいことだとして徹底して生きてみるとよい。
すると、そこからこぼれたものがあることに気づくだろう。
自分はこの肉体であり、そのなかの脳の演算、プログラムであると。
だから、プログラムには、肉体保存、自己保存、自我防衛が組み込まれている。
集団で暮らしているので、自己保存のためには利他行為が必要だとも。
すべては、基本的な欲求であり、外界の目的、目標物を得るために、行動があると。
だから、自分の欲求を叶えるために生きていけばよい。
そして、肉体が滅べば脳も滅び演算機能も停止するので、自分の心もなくなり、身体も分解されてなくなる。
この説明に納得できないのはなぜか。文化的な感傷なのか、非合理を好む性質がプログラムに残ているのか。
それとも・・この自分の観方が間違ているのではないか。
それを考えていきたいのである。