自分自身の変容法
認知や行動を変えるということが言われる時代だ。
再学習という意味、プログラムの修正。
しかし、「変容」とは、存在の変容である。
同じ自我状態にあって、ああでもない、こうでもないと、考え方をかえても、それは同じステージで横移動、場所を動かしただけ。
ステージそのもの、次元を動かしたければ、自分の存在そのものの定義を動かすことである。
すくなくとも、思考や認知を動かす訓練よりも、アイデンティティが動いたほうが、変容が起きる。
さらには、この「世界」「自分自身」が動いた場合には、顕著である。
宗教の神話、神学などで、神と人間の関係を定めていくのは、これこそが、人間を変容させる、動物から人間へと。装置だからだ。
神話が滅び、宗教の人間観が滅んだとき、人間は地におちて、頭のよい「動物」になった。
そして、神話のかわりに、「市場経済と資本の論理」が刷り込まれた。経済的人間観。
物質的人間観。科学的人間観。
そこでは、人間は生産のために労働し、生活のために消費し、身体の保存と身体の感覚、感情を重視して、自己保存に役立つ程度に集団や他者のことを考えるようになった。
自我充実の世界。
どこにも、聖なるものはいない。自分のなかにも聖なるものはない。
商品のように自分のことを市場にもっていって、他者の評価にゆだねる。格差のなかで、比較のなかで自己規定する。
成功者は満足して、持たざる者、失敗者、挫折者は他者や世をうらむ。あるいは自分をうらむ。
自分を否定して、商品のロストナンバー。消滅させようとする。
他者評価の世界。
それらの人を支援するとはどういうことか。結局、強靭な自我をつくり、その他者評価の競争環境に飛び込んでいく力を身につけることになる。
それでも、うまくいかない者は、自己消滅の願望とたたかいながら、意味が希薄な人生を必死で送っていく。
逃避のために、社会と隔絶した場所が欲しいがどこにもない。
自分の内面に飛び込んで、そこで、悩むことが生きていることと同義になる。
それを認知や行動を変える、自分を健康にするというが、それもまた、私には社会が檻のなかに閉じ込めようとしている欺瞞に思えてくる。
もっと、もっと、本質に迫っていかねばならない。
自分や世界の観方、見え方を変えていくこと。
そして、新しい人生を手にしてほしい。
ストレス問題とは、現代社会の豊さの影の部分である。つまり、必然として起きていることだ。
この影の部分は、いくら個人的ケアをしても、面談をしても、消えはしない。
それが時代精神の設定であるからだ。
だからこそ、心あるものは、この欺瞞にきづき、自らを変容させていこう。
変容とは、自分の存在の定義ごと、世界の在り方ごと、変えていくことだ。
それによってしか、新しい自分は出現しない。
私には、悩んでいる人が世をうらみ、他者に不満を述べながらも、痛いほど、この世界の価値観と、この世界の自分の見え方を持っていることに愕然とする。
成功者、豊かに輝いていきている人と、失敗者、挫折者、生き辛くて苦しんでいる人は、どこが異なるのでもない。まったく同じ人間であると私には見える。
ただ、歩いていった道からすべった人と、歩きとおした人の違い、偶然にすぎないと思う。