ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

シュミレーションを超えて

シュミレーションは、ある種の単純化が起きている。

過去から現在の状況をある程度、未来に反映して予想した前提を持つ。(そのとおりになる保証はまったくないのに)

☆このままの状況が続いたならばという前提付きだという意味。

関係者の「人格」「考え」を、自分の予想した筋書に合わせて、印象形成をしている。(ちょっとした言葉、表情、態度を過去の事例と結びついて自説を補強する)

自分の人格や能力を現時点のものを使って未来を予想する。(様々な体験をへて、能力が向上して、人格にも変容があることは考慮されない)

同様に、他者の人格、能力も、変わらないものとして前提される。

それなのに、未来に起こりうる事件については、明確なものとして扱う。

おもちゃのような「予測」である。

では、なにゆえに、このようなシュミレーションをして苦悩するのか。

それは、これまで「あるシュミレーション」をもって進んできたのだが、今回、それを否定するような言動を目にして、傷つき(傷ついたのはシュミレーションなのだが)、その体験を取り込んだ新しいシュミレーションを再構成する必要に追い込まれたのだ。

そもそも、当たるはずもない、仮初めのシュミレーションで生きてきていて、ちょっとした言動でそれが崩れて、また、再構成しようとする姿は、客観的にみれば、滑稽であるが、人間にとっては、大変な苦悩である。

それは、過去の評価も、未来の予想も変わってしまうのだ。信じていたものが裏切られたような苦悩がある。

しかし、それは過去の相手の言動を信じていたのではなくて、自分なりに解釈していただけで、新しい言動が矛盾を生じさせて解釈の変更を迫られているのだ。相手には何の罪もない。

シュミレーション人間は、本当の意味で、人を信頼することはできない。過去、信頼してきたようにみえて、信用が積み重なっているように見えても、たった一回の言動で、それは崩れ去ってしまう。

シュミレーションが変化するだけだ。このような人間には「信じること」だけでなく「愛」もない。

自分の期待に応えてくれていたときには、愛情を感じるが、そこから外れると、裏切られたと、憎しみに変わってしまう。

あるのは、自分の予測と期待だけで、相手がどのような人間なのかという理解や、尊敬や、愛情は、そこにはない。

自己中心的な人間は、他者を道具的に利用すると書いたことがあるが、その意味は、単純化してシュミレーションしているだけだと言ってもよい。

本当の相手の痛み、願い、思いなど、感じ取ることはできない。

いまや、結婚も、シュミレーション、子育ても、シュミレーションという恐ろしい側面があるようにみえる。

主体的に人生を創造する力を取り戻して、シュミレーションの力は、仲間全体のために使いこなすようにならないと、悲劇は止まらないだろう。