ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

シュミレーション人間の悲劇

このところ、スピリチャルの方々の考えも本やネットで探ってきたが、ここにきて、論点の整理をする必要を感じている。

科学が物質世界を強調して、精神の世界を折りたたんでしまったので、人間もふくめてすべてが物質化した弊害だとスピリチャルの方は言う。物質のなかに精神をみる、かつての「アニミズム」の復権や、物質世界を生み出している背景の精神の世界に目覚めよと訴えてくる。

しかし、私には、それもまた、現代社会が生み出した「シュミレーション」の一種でしかないと感じるようになった。

むしろ、科学の持っているシュミレーションの限界を超えるために、生み出された「新しいシュミレーション」であり、現代人の「願望」に応えようとして出現したもののように見える。

科学は、実証できないもの、確認できないものについては語らないという態度をとったために、「精神の世界」については、行動から推測するしかなく、それぞれの人生という「精神性」が含まれたものが、どのようになったいくのかという問いには答えられない。

そこで、「実証性」という枷をはずして、さらなるシュミレーションを進めていこうとしているものに見えてくる。

シュミレーションの使用限界を知って、シュミレーションをやめるという態度とは全く別であって、シュミレーションを精神の世界、見えない世界、死後の世界、時間の果て、空間の果てまで、伸ばしていこうとする試みである。

人間という有限の知しかもたない存在が、不可知の世界まで分かったかのように言語化していこうとする試みである。

もちろん、実在、ライフの場面が与えてくれる叡智、力というものは、人間社会を照らしているのだから、科学をこえた知識があるのは確かだ。聖賢の教えや、宗教の啓示のなかに、積み重ねられた生活のなかに、歴史のなかに、人間学のなかに、存在するのだと思う。

しかし、それらは、シュミレーションに使うものではなくて、各自が、ライフ創造の場において、応用、実践するものだと信じている。

ライフは、生命、生活、人生という3つの階層にわけてみることができるが、ここにおいて、生活の場ではシュミレーションが必要であることは理解できる。

他者と集団を形成して生きるためには、時間をあわせ、ルールを合わせ、そのなかで相手の意図を予想して自分の意思決定をしていくことが不可欠であって、それができないようでは、社会生活を送ることは難しいだろう。

かつて、時間が円環を形成して、祖先の生き方は自分の生き方であり、日々の生活や、年年歳歳、繰り返される生活は同じであった。

そこでのシュミレーションとは、日々の暮らしや行事をすすめるうえでの最低限のものでよかったはずだし、同じバックボーンとしての価値観、常識、神話などを持っているものどおしでは、容易であっただろう。

社会が発展という線の時間になり、日々が変化であり、年年歳歳、同じ暮らしが見れなくなった時代では、シュミレーションとは生きるための必須であり、不安に立ち向かう武器であり、周到な準備なくして、よい人生は送れないと考えても不思議ではない。

そこで出現した科学は、このシュミレーションを補佐し、再現性のある結果をもたらしてくれるようになった。また、生老病死という不可避の苦しみにも、医療、福祉、保険制度、社会の仕組みで乗り切ろうとしてきた。

だから、シュミレーションこそが、現代人の武器であることは確かなのだ。

しかし、「生活」では重要なシュミレーションが、「生命」に及ぶと、病気の発見、原因の探求、手術や服薬治療という姿に変質して、身体は、ロボットの機械のように扱われるようになった。

日々の心身のありよう、ライフの創造過程が、ストレスに関係し、健康を創造するということが忘れられてきた。養生というかつての考え方も薄れてしまった。だから、「健康によいもの」「長寿になるもの」「ボケないために」とシュミレーションと対策をすることになったしまった。

よいライフがよい健康を与える。人間の内なる自然は外部の自然とつながっていて、主体性を働かかせて、弾力性、復元力を高めていけばよいという考えが浸透しないのは、「生活」のシュミレーション技法が、「生命」にも及んでいるからだ。

さらには、生活のシュミレーションが、「人生の物語」と混同されるようになった。

高学歴ニートを言われる人が、なぜ、社会に出て働かないか。それは、いまさら、社会に出ても、自分と同じ学歴の人が送っている「生活」にはならないというシュミレーションがなされているという印象を持っている。

あるいは、学業の途中で挫折した方が、今からでも、学業をやり直してみませんかという働きかけに乗ってこないのも、年齢が上の自分がどのような学校生活になるか、卒業しても、就職などでどのように扱われるか、チャレンジの前に、シュミレーションによって押しつぶされてしまうのではないか。

人生の話をしているのに、過去の自分の体験、そしてそれが社会や他者からどう見られるか、そして未来にどのような苦労と生活が待っているか、ある意味、「やらないための理由」を話しているようにも聞こえるが、この方は、本気で、人生について語っているつもりなのだ。

だから、援助者は、この過去の体験による現在の不利益、そして現状がやむをえないこと、そして、未来に進むにしても、遅れをとっていて、望むものは手に入らないこと。このようなシュミレーションを共感して聞くことを求められる。

本人は、「自分の気持ち」を話しているつもりなので、これを共感して聞いてくれないということは、気持ちを分かってくれなかったと思うようだ。

しかし、これは気持ちではない。過去をいくつかの材料をつかって、今を規定して、さらにいくつかの前提と仮定をつけて、シュミレーションしたもので、そこに登場する「他者」は薄っぺらで、自分を馬鹿にしたり、嫌ったり、試したりする「配役」として認識されている。

このシュミレーションのなかで、いくら話しても、何年話しても、何も変わらない。援助者の批判を取り込んで、さらに乗り越えて自説を補強したシュミレーションが出来上がるだけである。

このシュミレーションによる「苦悩」「生き辛さ」を、自分の心の問題、人格の問題だと思っているので、援助者がそれを消してくれることを期待するのだが、そのようなことができるはずがない。

生活でつかうべき「シュミレーションの力」を「人生」に及ぼしたから生じた苦悩なので、消えるはずがない。

人生物語と生活のシュミレーションを混同しているとはどういう意味なのか。

人生は、これからも創り続けていくもので、決まってなどいない。自分の知っていることだけで予想などできない。日々の、刻刻の「選択」によって育っていくもので、意志や決断の力を栄養にしており、知的な予想は補助的な力に過ぎない。予想が当たっても、当たらなくとも、人生の価値には関係がない。むしろ、当たらないことのほうに意味があり、その後のあたらしい展開がある。

人生は自分が主人公であり、自分で考えて、行動に移して、その結果がどんなものでも責任をもって引き受けていくという主体性のある態度で育っていく。

また、人生のほうが、自分を導き、励まし、ヒントを与えているのだから、人生から学び、つねに変化していこうとする態度が重要だ。

このことと、生活のシュミレーションとの違いを深めていくことが、社会や他者との関係で悩んでいる人たちには、必須のことだと私は考えている。

しかし、問題は、不適応を起こして、生き辛くなった、その方たちにあるのではなくて、その人の周囲の人たちが、「シュミレーション」によって生きていて、勝手に困っている人のシュミレーションをして、不安をあおり、行動化を促しているのだ。

自分のシュミレーションで動けなくなっている人を、他者のシュミレーションのなかで、動かそうとする悲劇である。

人生として関わってくる周囲の人がいない限り、この方たちが歩き出すことはないと、私は考えている。