ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

耐えがたい苦悩

苦しみも楽しみも適量である必要があり、ライフ創造には付き物なのだから、苦しみをなくそうとすることは、あまりよい方針ではない。

しかし、あらゆる場面で通用する方法などなく、どのような方法であれ、役立つ場面はあるのだから、不快、不安、恐怖、不満、怒りなどの苦しみもまた必要なものではある。

つまり、ライフ創造にはさまざまな材料が必要になる。

ところが、私たち人間は、不思議に無意味な苦しみにはまって、自分を否定し、相手を憎み、ライフを捨て去ろうとするまで追いつめられる場合がある。

大きな意味では、それもライフ創造の秘密に迫るための体験ではあるのだろうが、なぜ、そのような苦悩が起きるのかを知っておくほうがよいと思う。

これは試論であるが、いくつか、気づくことがある。

特定の場面でのリアルな苦悩なら耐えられるが、「耐え難い苦悩」は、具体的な体験ではなくて、そこから派生した「シュミレーション」のなかで起きているようだ。

しかも、そのシュミレーションでは、自分では変えようがないと思える「相手の人格」が組み込まれていて、さらには自分の人格・能力についても固定された前提がある。

ライフのある場面の体験で苦悩を感じたときに、それまでの体験をつなぎ合わせ、先の見通しを立てて、自分の無力さも前提にして、これから「耐え難い苦悩」が来るとイメージしているように思える。

少しばかりの「材料」と、いくつもの仮定、前提を積み重ねてつくった「幻の未来」であって、それが襲ってくるのなら、自分は耐えることはできないと「苦悩」しているのだ。

でも、この「材料」選択の誤り、異なった「材料」の提示、さらには、仮定・前提をひとつずつ崩そうとしても、この苦悩は消えない。

所詮は、その人の自我が生み出している「シュミレーション」なので、他者が働き掛けても、それを台無しにする新しい仮定や前提、違った「材料」を持ちだして、この「不快な未来」に妥当性があるのだと、再構成してくるだけだ。

このシュミレーションのなかに入っていることが問題なのに、そのなかで他者が苦闘して救おうとしてもそれは無理なことだ。

知っていることでつくった世界で、自分の願望を守っていることに気づき、自分の知らない世界が広がっていて、ましてや、未来など自分の予想を越えたものだと思い出すことだ。

シュミレーションをやりすぎて、それを信じるから、実現にむけて動いてしまうのだ。

大切なことは、刻刻の、ライフの創造に努めることだ。実在から知恵と力を得て、選択をしていくことでライフが育っていく。その結果が未来につながっていく。

もちろん、シュミレーションによって、回避できる「未来の苦悩」もある。だから、便利なものなので、なんにでも使おうとするのだ。

シュミレーションしたほうがいいときには、それをしっかりと使うこと。

逆にシュミレーションしてはいけないときには、それを使わないこと。

耐え難い苦悩は、その適用の誤りによって生じている。

シュミレーションの「限界」「歪み」「制限」についての知識が不足しているのだと思う。

あるいは、シュミレーション以外の方法を磨いていないのかもしれない。

ライフの観方には、二つの方向性がある。

ライフ全体から自分という「点」に向かっている視線。

そして、自分という「点」からライフ全体へと向かっている視線。

シュミレーションとは、「点」から「全体」をみた姿であり、自己中心性というバイアスがかかっているし、見通せる視界の限界がある。それを承知で使うことだ。

全体から点をみるということは、実在のもつ「叡智」「力」を引き出して、刻刻、場面場面の選択をしていくことだ。点である自分にはそれがどういう結果になるのかは見えないので、「お任せ」するしかない。

こうしてみると、現代人の耐えがたい「苦悩」は、全体から点をみる視線。かつての神や仏から自分を見るというような視点をなくしたゆえのものかとも思えてくる。

しかし、この苦悩は、点としての「個」としての自分を育てるものでもあり、必要なことなのだろう。

つつまれた安心には、とどまれない自由な人間があえて引き受けた苦悩でもあるのだろう。