心を対象とした面談の限界
心を対象とした面談の問題点について、いくらか説明した後に、ライフ対象へと展開する必要性についてすでに書いた。
ここでは、心を対象とした面談の問題をもう少し分かりやすく整理したい。
心が「情報」として安定したものではないことを忘れてはいけない。
身体の影響を受けること、行動から心が変わること、なのはすでに書いた。
以前、人間は知っていることで「世界」を再構成してみていると説明したが、時代によって、文化によって、私たちは現実を違った姿で見ている。
そして、その背後には、いまだ人間が知りえない不可知の世界があり、あるいは選ばなかった可能性の世界があり、実在とは、人間が知り尽くすことのできない叡智の塊である。
そのなかで、ライフ(生命、生活、人生)が創造されているのに、それを自分の「心」を解き明かすことで説明して解決していこうとするのは、どう考えても無理なことだと思う。
もちろん、自覚できない潜在意識、無意識という考えもあるのだろうが、もはや、それは「心」を見つめることの限界について語っているようにも思える。
さらに、人間には、物事のとらえ方にバイアス(偏り)があることがわかっていて、それをかき分けながら、心と格闘してもライフをよきものにすることなどできないと思う。
大きな世界、人間が知っていることと知らないことを合わせた大きな世界。
そこには叡智があって、人間は経験と学問によって、その一部を解き明かしてきたにすぎない。
ましてや、それを応用して、日々のライフをよきものにするには、それぞれの人が現実の経験から知恵と力を引き出していくしかない。
神や仏、祖霊が死んだとしても、実在はそこにあり、人間を導いていることに変わりはない。
それを自分の心さえよきものにすれば、願いがかない、よいライフになるというのは妄念のようなものだと思う。
心理カウンセリングは、もちろん、効果もあり、善意のものではあるが、当然、限界もあり、使わないほうがいい場面もある。
神を殺した近代人が、小さな自分の心をもてあまして、救おうとしたのが「心理カウンセリング」ではないのか。強靭な自我をつくろうとして出現する弊害の除去のためのバランサーである。
その証拠に、心身が健康で、主体性をもって、ライフを創造している人に対して、心理カウンセリングは無力であると思う。心身を健康にして、主体性を回復させることはできたとしても、その強靭な自我をつかって、どのようにライフを創造していくかについては語る力がない。
それぞれの価値観で生きればよいという。しかし、そこからまたライフの諸問題が出現して、疲弊した自我がカウンセリングを求めてくる。
ストレスを減らせばよいという新しい呪術。たしかに、過剰なストレスは問題だが、それはライフの創造がうまくいっていない、選択の変更をせまるサインである。生き方を変えないのに、ストレスを減らすという対症療法。
ストレスを減らしても、よいライフになるわけではない。心理を安定させてもよいライフになるのではない。よいライフを創造していく営みのなかで、ストレスが適度になり、活力になり、そして、心にも充実感、達成感、満足感、安心感がうまれてくる。
ストレス、心、というセンサーのメモリを動かして、ライフを適正化できるという本末転倒。ライフがよきものに育っていくこと、ライフからの導きによく従うことで、ストレスも、心も、適正化していく。
現代の自我の軋み、苦しみは、神を殺したことからくる「反動」であり、これからは、大きな意識と個人の意識のどちらかに偏るのではなくて、意識と物質、身体を分けるのではなくて、ライフという全体、世界という全体と個人が一つであるということからスタートするときに来ているのだろう。