ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

蚕と繭

桑の葉という「真実」を食みながら、蚕はそれをつくり替えて糸にして掃き出し、自らを繭の中に閉じ込める。

この繭は「不可知の真実」を素材としているものの、もはや蚕の生み出した、蚕にとっての「現実」であり、真実ではない。

この繭に映し出され響いているリアルな現実だが、それぞれの繭が異なるように、その蚕のものであって独自に生み出された現実である。

そして、蚕はこの繭のなかで姿を変じていき、いずれ繭をやぶって真実の世界に飛び立っていく。

このたとえが、どれだけ私たちの世界を表現しているのか、心もとないが、それでも大切なことが含まれていると思う。

全てを自分がつくっているというのだが、その自分もつくったものだから、本当の「つくっている存在」とは何かについて考えたくなる。

しかし、それは社会を含む大自然があって、人間を含む社会があって、脳を含む身体があって、これらは所詮、それらの関係性が生み出した自分なりの意識でそう思っている姿だから、結局、これらも繭に写された姿にすぎず、

本当に大切なことは、考えることも、表現することもできないことにきづく。

そのような現実の奥にある、意識の奥にある、みえない関係性の総体、空といったものに託すしかない。

これを「妙」とも「法」ともいっていたのだろう。あるいは、仏とも。

不可知の世界のことである。

糸を吐いている蚕にすぎない自分が、自分まで糸でつくっている存在が、生き方としてどのようなものを紡げばよいのか。

それは空の世界、関係性の世界は、常に私たちがつくった現実を固定させることを許さない。

変化こそが常態。諸行無常であるという。

私たちの世界は、てさぐりで記憶した見取り図のようなもので、経験でできた記憶の絵姿にすぎない。

もちろん、色もあり、音も、臭いも、味も、手触りもあるがゆえに、よくできた「絵」であるが、所詮、経験した記憶でつくった、手探りの見取り図の延長でしかない。

もちろん、この絵姿は、「動くもの」についても記憶したとおりに動くし、「原因と結果」があるようにも経験からして埋め込まれているし、よく検討してみれば、素朴な人間の体験からくる歪みと偏りに満ちているが、それは当然のことだろう。

むしろ、よく辻褄をつけたものだと思う。

私たちは、この動く見取り図のなかで、動こうとする。予測し、シュミレーションして生きていこうとする。

しかし、真実、不可知の世界の関係性から、その予測は裏切られ、エラーを起こす。

この思い通りにならない体験がストレス、苦、不快であるが、そのときの不可知の世界の関係性のゆがみや、ひずみを引き受けた内受容感覚を・・私たちは状況から「感情」のラベルづけをする。

思考、感情、意志、価値観など、ラベルを張り続けて、エラーを受け入れていく。

そして、エラーがおさまることを待つ、エラーがおさまるような動きをする。

そして、エラーが消えていく。

私たちのライフが、生命、生活、人生という層をもち、感性、感情、意志、思考、さらには価値創造の世界を拡張して創造していくのは、安全弁の安全弁というふうに、エラーを逃がす装置をつけて、さらにそのエラーを逃がす装置を上乗せしているようなものだ。

これに学問という秩序系、固定系の装置が乗ると、この歪みはさらに大きくなる。

変動する現実をおさえこもうとして、固定する作業をやりすぎたのだ。

もし、人間が幸福でないとしたら、それはこのあまりに巨大になった固定のために装置のせいで、本来の空がもたらしている「現実」が変化しなくなったかわりに、固定化装置が大きなエネルギーを消費して、私たちを疲弊させているのだろう。

単純に自然性の喪失という言葉では表現できない悲劇がここにある。

つづく。