ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

繭の中 その2

繭の中というたとえが面白いのは、そのなかで、蚕が変態していくことだ。

たしかに、私たちもライフという三層構造の繭のなかで、一生をかけて、変容していく。

それは繭のそとが、変化を常態としており、それを固定しようとするいかなる営みも裏切られ、結局は、繭も、繭の中の創造物も、すべて変化していくのだ。

そうでないと、不可知の世界からみれば、存在さえゆるされないだろう。

ライフストレスとは、3層の歪みのようにみえて、本当は、とどまることをしらない、存在の秘密、空であり、妙であるリアルが、仮想の私たちの世界を圧迫していることに外ならない。

ストレスとは、苦であるが、それが苦であるのは、この繭のなかがシュミレーション世界、願望世界であるがゆえ、固定をしようとするがゆえ、見取り図、過去の経験でつくった、見取り図をリアルだと思い込もうとするがゆえ。

釈尊は、それを我欲といい、執着といった。そこから解脱するということは、死して、繭から出るということだけでなく、生きながらにして、繭から出て、不可知の世界、空や妙の世界に立ち、呼吸することだということだろう。

8つの聖なる道は、私のいうところの主体性訓練でもあるが、その正しさとは、空、妙、不可知の世界での正しさであって、自然の法則に合致しているというモラロジーのいうところの天理、天地自然の法則のことだが、これを記述しようとすると、繭のなかにからめとられてしまう。

正しさではなくて、バランスであるとか、関係性であるとか、表現は難しいが、ライフストレスを解消していくという現代的な課題に通じてくるのだと思う。

このような前提を無視すると、ライフスキルもまた、願望世界のツールとして飲み込まれていくのだろう。

一部分を取り出すと、まさに、ハウツー的な成功法のようにもみえるが、全体をバランスよく実現していくというふうに考えると、主体性の表現として、聖なる8つの道に相当するような深さをみせてくれる。

ライフスキル全体のバランスをとっていく、つまり、そのような関係性のなかで、生きること、そのような関係性のなかで生じた自分を育てていくこと。

EQ 個性 知性 のバランスとか、品性、人格、品格とは、このようなことを表現しているのだと思う。

たとえば、モラロジーの5大原理にしても、同様のしかけがあって、それらをバランスよく実践していくというふうにしか、表現できない何か、それを表現した背後を考えないといけないと思う。

ひとつずつ、ライフスキルをバラバラに実践しても、偏って、むしろ、ライフストレスが増大していくように、モラロジーの原理もまた、そのバランスのなかに表現したいものが込められているというふうに謎解きをする必要があるのではないか。

価値観の問題が残っているようにも思うが、結局、上記の実践のなかで、自分のおかれた状況、個性に応じて、信念が修正され、思考パターンが形成され、それはもはやスキルというよりは、その人独自の価値観として現れるのではないか。

そして、繭がやぶれていくにつれて、つまり、虚空に開かれていくにつれて、個別性もやぶれ、その価値創造は、それなりに、固定した何かではなくて、妙、空という裏打ちのある「生き方」になっているのではないか。

その途上において、ライフスキルが人格に浸透していくなかで、価値観があるかにみえるのであって、なにか、言語化した価値体系をそれぞれの人間が持っているものでもないだろう。

ただ、この繭のなかでの変容の物語、創造と破壊、固定と変化という、ドロドロと流れては固まる、この物語は、独自性のある世界に一つだけのものであって、ライフ、人生という総体という意味で、そこに価値観を読み取ることはできるかもしれない。

つまり、生命、生活、人生というものは、ライフの見方にすぎず、別物ではないということだ。

だから、この3つのひずみとして、ライフストレスはみえるが、本質的には、このライフ自体が創造物であり、願望であり、シュミレーションであり、そこにリアルがノイズとして苦をもたらしていることを内部的に理解しやすく説明しているだけだということ。

なぜなら、この3つのバランスをとったらよいと言われても、具体的にどうしたらよいか、3つのどこをどう動かせばよいのか、見えてこない、「3つのバランスが崩れているようにみえる」という繭の中でのサインとして考えたい。

聖なる8つの道、主体性訓練、ライフスキル、5大原理の実践、これらは同じことを目指しており、自分という主体がどのように生きるか。それだけである。

いくら考えても、トレーニングしても、何かを手に入れても、それが絵姿にしかすぎないとしたら、唯一、不可知の世界に働き掛けて、その結果としてライフのバランスをとるものがあるとしたら、主体性の発揮しかないだろう。

日々に新た、惰性ではなく、過去の焼き直しではなく、それを実践していくなかで、繭は不要のものとして開かれていくのではないか。

繭があっても、なきがごとく、妙、空、不可知の世界を前提にして、そのうえで、繭のなかで、他者と協調して生きることだ。

以上。