ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

久しぶりの投稿

このブログに書くのはいつぶりだろうか。

ここまでの道を振り返り、これからの道を見通すために、私はたちどまった。

もっと正直にいうと、歩けなくなった。

これまでの呪縛から離れ自由になったともいえる。

何のために、何を目指してと自分に問いかける。

しかたないだろう。

ある時期の私は、そのような固定した道に背こうとしていたのだから。

朝起きたときに、目の前に、真っ白に積もって足跡もついていない、そんな一日がないだろうかと夢想していたのだから。

繰り返し、焼き直しの毎日にあきあきしていたのだ。

そして、これまでの道をあるいみ否定して立ち止まって。

どうしようと考えている。

やりたいことをすればいい。行きたいところにいけばよい。なりたいものになればいい。

そう、こどものように自由になればよい。

でも、動きださず、怠惰になった私がいるだけだ。

これはどうも自分をだましたのではないだろうか。

大切なものを捨てさせるために、自由になりたいという思いを利用されたのではないか。

本当の自由とは主体性のことだ。

しっかりと自己決定して、誠実に進んでいく道であって、ただの過去からの道の破壊などではない。

今回の「自由」は過去の否定であったのではないか。

もっとしっかりと自分の歩いてきた過去を肯定してよいのではないか。

毎日が惰性、繰り返し、焼き直しであったのは、別の原因なのではないか。

むしろ、同じ生活の繰り返しの中に、怠惰からの自由があるということもある。

だから、繰り返しや継続の否定が自由であるはずがない。

私が過去を否定したのは、願望がかなわず、傷ついたからだろう。

だから、やめようと。

しかし、本当に不自由だったのは、その願望にしがみついていたからだ。

はたして、過去は願望だけだったのだろうか、そこにはリアルな関わりや充実感はなかったのだろうか。

日々、新たという意味を取り違えたのではないか。

願望と目標は違うと教わった。願望は具体性がなく失望に変わるとも。

では、本当は目標とはなんだろうか。

具体性があればよいのか、期日数量がきまって、取り組んでいればよいのか。

具体性、自主性、イメージ、行動化というが、それは本質なのか。

目標の本質とは何か。

人生に目標はなぜ必要なのか。

もういちど、考えてみよう。