ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

共感よりも違和感を楽しむ

いつ頃からだろう。

自分の気持ちに共感してもらうことを他者に求める人が多くなったのは。

あるいは、自分と他者の違和感を見せないようにふるまう人が多くなったのは。

カウンセリングなどを勉強された方は、「共感」と「同調」の違いは分かっておられるが、それが混同されることが問題を複雑にしている。

共感は、自分と相手が異なることを前提として、自分は相手とは違う気持ちだけれども、相手の性格、生い立ち、体験してきたこと、能力、価値観、年齢、性別など様々なことを考えると、自分と違って、そのように思うことは当然だと理解できる。

そのような相手の気持ちに焦点をおいた感覚であって、自分が同じ気持ちになるということとは、少々異なる。

仮に、「自分もあなたと同じ気持ちだ」ということでかかわっていくと、結局のところ、確認できるのは、同じところもあるかもしれないが、異なるところも多いという事実だ。

とりわけ、自分が大切にしている価値観は手放せないので、同調していったとしても、自分の価値観が傷つく場面では、相手への反発が湧いてくる。

以上、共感と同調が違うということをまとめたが、ここで言いたいのは、その前になぜ、共感を求めるのかというテーマだ。

拙著、生命の詩でこのテーマは掘り下げているところだが、かつてのように集団が同じ価値観の時代には、自分の考えが集団のおきてと同じであることが重要であり、他者もまた、同じであることを求めていたものだ。相互に確認していたと言ってもよい。

しかし、今のように各自バラバラの価値観になってくると、同調できる部分より、差異、違和感のほうが増えているが、それなのに、自分の考えが普遍的に正しく、相手も同じだろうと考えてかかわっていくと最終的には対立してしまう。

カウンセリング界に足跡を残したロジャーズは、これまでは、相手と自分が同じだから好きだということでもよかったが、これからは、自分と相手が異なっているから好きだという時代に入っていかないといけないと言っていた。

相手と自分の違いを楽しく思う。違和感という驚き、発見にわくわくする。人間ってあきがこない、多様性を持っていると思える。

そうやって、はじめて、自分も、多様性のある人間の中の一人であると肯定できる。

他人の目をおそれ、他者と自分が異なることを恐れ、自分の気持ちと同じである人を求めるのは、人間の古くからの癖かもしれないが、今の時代、それを乗り越える必要がある。

相手が自分を理解してくれているかどうか、相手が信用できる人がどうか。

それが問題なのではなくて、自分が相手を好きになるのか、信じるのか、そのような意志、主体性の世界の話である。

対人関係は、じゃんけんのようなものだ。だから怖いし、楽しい。

仮にじゃんけんで、相手がぐーを出してから、自分がぱーを出すように、後出しをすると安全なのだろうが、そこには、わくわくする世界、自分が生きているという感覚はなくなっていく。

相手が自分を好きなら好きになる。相手が自分を理解してくれるなら信じる。それをお互いに探りあっているのでは一歩も前には進まない。

対人関係は、「賭け」だと言われている。もとろん、結果として傷つくこともあるだろう。傷つかない人生が大切なのか、出会いのある豊かな人生が大切なのか。

このような意味で、共感よりも、違和感を楽しむということも大切にしたいと思っている。