個と市場経済(お金)
ミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」は、モモという少女が、時間泥棒から盗まれた、たくさんの人の時間を取り戻す物語だが、この背後には「お金によって人生を灰色にしている人間」という寓意が込められているという。
個ではなく集団で生きていたときには、助け合いであったが、それでは市場経済は発展しない。
それぞれが、砂つぶのように個となって、「お金」をかせいで、その「お金」で必要なものを手にしているという前提が必要である。
私たちは、あるときはサービスを提供する側、そして、あるときはサービスを受ける側であるのだが、それはお金によって分断されて、そこには与える喜びも受ける感謝もなくなってしまっている。
現代社会のように、自分が消費者のときには、高いサービスを求めて不満をぶつけて、自分がサービスの提供者のときには、そのような消費者に腹を立てながらも我慢しているのが現代社会である。
同じ自分で、右手と左手で叩き合っているような様子にも見える。
こうなると、与えることと、受けること、助け合いの中で、構築されていた、人生の意味は崩壊して、お金をたくさん稼ぐことで、自分だけは取引の苦悩から脱出しようとするようになる。
そして、勝ち組、負け組というように、砂粒のようになった個は、さらに分断されていく。
このような社会において、個とお金の問題をどのように乗り越えていくのか。それがライフストレス研究の大きなテーマである。
その意味では、新しい経済学が必要になっているといっても過言ではない。
拙著、生命の詩では、この問題の打開策として、地域通貨の話、古代エジプトの価値が減っていく通貨などを紹介しているが、その後の展開がとまっている。
ここでは、個の自覚と市場経済が関係しており、抜けがたい鎖でつながれていることを指摘しておくだけである。
個の意識が極まってきたことが、生き辛さ、生命の輝きを失うことにつながっているとするならば、それは市場経済・お金と根深く連動しているということも忘れてはならないということだ。