行き過ぎた個の自覚
個とはこれ以上分けられない「自分」という存在であるが、この観念が行き過ぎたのが現代だと考えている。
自分はどうしてこのようなものなのか、という問いに不当に苦しめられている。
かつて、天動説で天体の運行を説明していたのは、そう見えたという日常意識に基づくものであって、天体望遠鏡などでの観測によって矛盾が発見されたことで、地動説に移行した。
同様に、自分が見ている、聞いている、感じている、考えているという日常意識から、自分という点から世界を見るのもまた理解できることだ。
ただ、かつては、神や仏、自然、祖霊などが自分を包んでいて、見守り、導いているというバランスのなかで個と全体はまた調和があったと思うのだが、それらが我々の日常意識から抜け落ちていったときに、個は全体から切り離されてしまったように思う。
自分がこうなったのは、親との関わりだとか、過去の苦しい体験のせいだという話には共感を覚えるが、ではその親がそうなったのはなぜか、この苦しい体験が起きたのはなぜかという追求をしていくと、自分はおおきな現実の中に溶けていってしまう。
そうならないように、自分を世界から切り離して、他者を評価し、社会を評価し、自分のありようもまた、自分で評価していくことになる。
大きな樹木の一枚の葉っぱが樹木全体、森全体を語るように思えるのだが。
そうして、その葉っぱは、木から吹き飛んでいってしまう。生き辛さと表現される現代の心の病は「生命の輝きを失っている」ということのように思える。
自分といっても、自分で動かせない部分、身体の機能、心の奥底などがあって、それはむしろ、自然に属するものだろう。
あるいは、ヒトという種として生まれても、人間になるには、その社会から言葉や知識や習慣を、受け継ぐ必要がある。
自分とは、自然や社会と「主体性」(自分で動かせる部分)の合成である。
そのようなことを忘れて、自分のことを見つめ、語りだしたときから、自分はこれらから切り離された実体のないもの、生きていないものになる。
点は、たしかにあるが、面積をもたない、位置を示すものである。
行き過ぎた個の意識は、点のように、あるにはあるのだが、本当は見えないもの、ないものになってしまう。
ただ、今日も多くのツイートを読みながら、それに巻き込まれて、共感して、一緒に悩む自分がいる。それほど、時代意識は変質しているようだ。