ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

個性の尊さがなぜ生まれるのか

心理学は、科学ですから、個人と個人の心の違いは「個人差」として扱われ、「価値」は入り込んできません。

それに対して、人間はその人格において分けることのできない「全体性」を持ち、他者とは比べようもない「絶対性」をもっていますが、そのような視点からの各人の独自の性質は「個性」と呼ばれています。

世界に一つだけの花という歌がありますが、そのように個性の尊さがあるということを私たちは知っています。

しかし一方では、成功と失敗、高収入と低収入、学歴の比較、頭の良しあし、筋力・腕力・運動能力の比較、健康と病気、容姿の良し悪し、社会的な名声のあるなし、人脈の多さ、友人の多さ・・数え上げればきりがないほど、「社会」という入れ物の中で「比較」をして、「相対的」に自分を評価していることがあります。

大切な個性の絶対性は、社会の中での相対的な評価の中で圧迫されて、「ストレス」を生み出していますが、それは生命の叫びであるかもしれません。

すこし、話はそれますが、絵などの贋作を見破るには、素材の古さ、絵の具の科学的な分析、作家の作品に共通する特徴との合致など、分析によって行うのだと思いますが、仮にそれらのチェック項目にすべて合格したとしたら、それは「本物」でしょうか。

あるいは、自分が大切な人からもらった時計とまったく同じで、例えば傷も同じもので、自分でさえも、その二つのどちらが自分の持っていたものか、分からなくなったときに、それでは、こちらが本物でいいですねと、実は異なるものを渡されたら、心が痛みます。

凶悪な殺人者のカーディガンを渡されて、それを着てくださいと言われると、躊躇するという体験を使いながら、人間は「物」にも精神がこもっていると感じていると指摘している学者がいます。

しかし、その絵や時計、カーディガンを調べても、どこにも、作家の魂とか、大切な人の思いとか、殺人者の心などは発見できないのです。

このような感覚はどうやって生じているのかというと、私たちがもっている「記憶」の力を共感性をもって、他に及ぼしているのだと考えられます。

先に例に出した、「絵」を主人公として過去にさかのぼると、本物はその作家が書いて、だれかが手に入れて、保存していたものが、また誰かにわたってというふうに、ここでその絵に出会うまでの物語があるはずなのです。

同様に、贋作は、誰か別の人が本物そっくりに絵をつくって、それを本物だと思わさせるために、嘘の経歴をつくっていった、そのプロセスがあるはずなのです。

時計も、カーディガンも、その物を主人公とした空間と時間の旅の中での出会いがあったということです。

先に、心理学の個人差との比較で「個性」は全体性と絶対性を持つから価値があると書きましたが、その絶対性は、この時間と空間の中での旅と出会いを言っているのだと思うのです。

物が生まれて使われて壊れて自然に帰るように、私たち人間も、生まれて、活動して、そして最後に死を迎えます。

これは「人生」ということになりますが、自分を主人公として多くの登場人物や物と出会って、関わって、人生は時間の流れの中で大きくなっていきます。

今という瞬間だけが自分、人生なのではありません。ちょうどCT検査の断層撮影のように切断面の写真だけが人体ではなくて、足の先から頭のてっぺんまでそれを集めたものが人体であるように、私たちの人生も生からスタートして死で完成されるまで、時間の流れの中で日に日に大きくなっているのです。

胎児がへその緒で母から栄養を得て、大きくなるように、この時空という母胎のなかで、出会いと関わり、すなわち、体験によって大きくなっていきます。

そして、この時空という母胎から出るのが、死になります。

時空を出たあとの、私たちがどうなるのか、それは私にはわかりませんが、時間の流れのなかには、確かにこの完成した「人生」は永遠に残っていきます。

その人生と響きあい、照らされて、別の人生が時空の中で育っていきます。私の死後もこの世界は続いていきます。

この人生は時間の中に生えている樹木のようにも見えます。

私は、個性の尊さとは、このような物語性にあると考えています。