ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

オリンピックの聖火の価値

個性の絶対性、ほかに変えようのない価値、それは私を主人公とした時間と空間の世界での物語によるのだと書いてきました。

同様に他者もまた、私の人生では登場人物として大切でありますが、その他者が主人公となって、時間と空間の旅を続けてきた記憶、つまり物語が同時に重なって存在しています。

この考え方は、人間に限るものではなくて、一本の松の木にも物語がありますし、猫にも、虫にだってあります。さらには月にも太陽にもあると考えて間違いありません。

そして、その延長上に、人間がつくった物、道具にも物語があるというのです。

このような物語性が持つ価値のことをかつては「魂」と呼んでいたように思います。

一本の刀剣があったときに、「この刀には魂がこもっている」という場合、それは単によくできているとか、切れ味がよいとか、美しいとかいう評価を超えて、この刀をつくるにあたって、刀鍛冶が身を清め、熱をくわえて、何度も何度もたたいてまげて伸ばして、その過程の物語が背景にあることを感じ取って魂がこもっているというのではないでしょうか。

その意味では、人間が生まれて、活動して、最後に死を迎えることで物語が完結するように、一本の針であっても、誕生し、人手を介して、自分のところにきて、様々な着物を縫うのに使われて、折れたり、使えなくなったときに、針供養をするというのも、この時間と空間の旅を通じて、込められた魂を完成させるものではないでしょうか。(物語の完成が魂の完成)

現在は葬式など死の儀式や法事、墓の問題など、多くの人の考え方がゆらいでいますが、本来は魂の完成としての儀式ではなかったのかとも思えてきます。

テレビで、かつての東京オリンピックで聖火を運んだ人たちの物語が紹介されていました。それぞれの方の人生の一つのエピソードとして、様々なことがあったようです。

そして、その「聖火」自体の旅によって、聖火は尊く、魂のこもったものになったのではないでしょうか。

このように人や動植物、自然、物を見るときに、精神的な視力で、見えないはずの物語を見ていく姿勢が私たちの人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。