ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

体験世界と自我の関係

LIFEを構成している「生命」においては、人間内部の自然と外部の自然はつながっており、その意味では自他の自然もつながっている。

よく、すべては一つであるといわれるが、このような生命の連続性に焦点を当てるとそれは妥当な考え方だと思う。

しかし「生活」では人間の関係性が重視され、かつては家と家の関係性、現在は個人と個人の関係性において、さまざまな尺度で比較評価がなされ、連結されている。

とりわけ市場経済の中では、個人という分割された存在が生産活動に参加して働き、お金をかせいて、そのお金で消費をしていくという姿になり、お金によってすべては数値化されている。

「生命」と「生活」の不調和が人間のストレスとなるが、かつては、生活の中に季節があり自然があり、自然が包み込んでいたという意味では調和があったと思う。その一方では、生活の貧しさの中で生命が押しつぶされていくという不調和もあっただろう。

だから、人間は自然を飼いならし、生活を豊かにしようとしてきたが、その人工的な社会の中で今度は自然が悲鳴をあげており、それと符合するように人間内部の自然もくるってきている。

とくに、「個人」を確立していくなかで、近代的自我といわれるものを構築してきたのが、この現代文明である。最初はおそるおそる歩きだした。神が人間を見ているという拘束具をつけて、自我は自覚されだした。

しかし科学の進歩は神や仏の実在を疑わせ、市場経済のなかで物質的な豊かさに包まれていくなかで、自我は強固になった。

心理学はそれを支えていく学問として出現する。あくまで心は見えないものなので、仮説的に構成したのだと断わりながらも、精緻に人間の性格や人格について語りだした。

人間はこの自我を防衛するような心の反応を見せるとされた。

今では、自分の心、性格、人格などは確かにあるのだという前提で、どうして自分の性格や人格はこのようになったのか、変えられないか、という問いが生まれるようになった。

過去の人生物語は、今の人格をつくる材料にすぎず、過去は今の自分がイメージとして思い出しているものだとされた。

そして、未来は、この自分の人格が生み出していくものなので、自分の人格を変えないと未来も変わらないと考えられた。

そして、望む未来のイメージと、それを達成するための自分の人格という図式が出来上がる。

過去の物語も、「自我」に巻き取られてしまい、その自我が未来をつくるのだと思われている。

ここでは、他者や動物、植物、物、自然環境なども、すべて、自分とは切り離されている。ストレスは、それらが「自分」に与える刺激のせいだと考えられた。

その刺激が、快不快、損得、苦と楽、無意味と意味などで分けられて、不快、損、苦、無意味がストレスを生み出しているという。

心理学者は、認知、受けとめ方を変えよというが、そうやって、つぎはぎに、不快なものを意味付けして受け入れる訓練をしたところで、「生命」と「生活」の調和が成し遂げられるはずもなく、対症療法的な取り組みになってしまう。

この「自我」を実在として立つ限り、この迷い道から抜け出すことはできないと考える。

「人生」のほうが実在であって、すくなくとも体験世界が自分独自のものであると考えているが、自我は、それを鏡で映したようなものである。

本当は、危険に満ちた体験世界がそこにあるが、それを自我に映したとき、「神経質」と評価される。その人の言動がそのように見えるからだが、それは危なく見えているのだから、安全に見えている人とは言動が異なるのは当然なのだ。

同様に、チャンスに満ちた楽しい世界がそこにある場合には、それを自我に移したときに「外向性」と評価される。魅力に引き付けられて前向きに行動するだろう。そのように魅力的な世界ではない場合には別に動こうとはしないが外向性がない人だと言われる。

秩序だった計画的世界がある場合には、約束を守って計画どおり進めようとするので「誠実性」があると言われるが、無秩序で物事がどうなるかわからない偶発的世界であれば、臨機応変な態度に出るのは当然だろう、しかしこの人は「誠実性」が低いと言われる。

助け合いで支えられている協力的世界があれば、他者に配慮して自分の得られるものを譲ることもあるだろう。この人は「調和性」があると言われる。一方、競争的な世界がある場合には、自我にはそれが映されて人に譲ることはなく自分を貫いていくだろう。すると調和性が低い人だと言われる。

世界が多義的であれば、さまざまな発想に広がりがあり新しいアイデアが湧いてきて、開放性が高いと言われるが、世界が一義的な人からみれば、それは面白くはあるが役に立たない、ある種異常なものに見えるかもしれない。

このように本来は、その人の体験世界の特徴であったものが、そのなかでの個人の言動、態度などから自我に鏡のように映して「性格」の分類をしているように見える。

この鏡に働き掛けて、その姿を変えることができるだろうか。本体である体験世界を変えていくことしかない。

従って、結局のところ、心を変えるという心理療法も、体験世界を変えているのだが、影を見ながら本体を動かしているようなもどかさを感じる。

自我が強固に防衛しているのではなくて、この体験世界自体が異物を排除しようとしていると考えてみたらどうだろう。

LIFEにおける「生命」と「生活」の不調和はこのようにして生まれているが、それを調和させて、統合するのは「人生」だと書いてきた。

それは、この体験世界自体を豊かにして変えていくものだからだ。

そして、自分の人生では他者は登場人物であり、動物や植物、自然環境、一つの石であっても、それがなくなれば自分の人生ではない。すべては一つにつながっている。

さらには、相手が主人公の世界ではどうように人生が構成されているが、そこでは自分はわき役としての登場人物である。

こうして、たくさんの人の物語が相互に重なりあって、さらには植物にも動物にも様々な自然の事物にも、道具や物にもそれを主人公とした物語があって、重なっているという意味で、一つの豊かな世界を創っている。

このイメージを強めていくためには、「自我」の実在という前提を外してみることから始めたい。

この世界を自我がイメージとして見ているのか、この世界を映して自我があるように見えるのか。

仏教の伝統では、この自我が本当はないこと、無我から考察を始めているが、現代社会ではそれは真逆の考え方であり、受け入れることは難しいだろう。

ライフストレス研究では、体験世界と自我の関係を追求していくこともテーマとしている。