ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

俳句や短歌と自我

もともと日本語では、「私は」という主語を日常会話などでは省略することや、対象を主語として語ることが多いように思います。

私は鳥を見たではなくて、鳥が飛んでいる。

私はあなたが歩いてくるのを見たではなくて、あなたが歩いてくる。

人生物語が大切だと書いてきました。「私」とは鏡のように体験世界や物語を映したものであって、物語のほうが実在なのだと。

私を主人公とした世界には、相手を主人公として私を登場人物とする世界が重なっています。

それを無視して、「私」を中心において、それらを「他」として区分しているのが現代人の意識です。その「他」は物語をもたない希薄なものです。

ところが、日本人は、日本語を通じて、一本の針や、松の木や、クワなどの道具や、森など、そして他者もまた、それぞれが物語を持っているものとしてとらえています。

とくに、俳句や短歌には、自分と対象を分けるのではなくて、対象のことをよみながら自分のことを表現しているような主客一体の世界があります。

そして、その言葉は575、57577などの音のリズムに包まれて、とりわけ、俳句は「季語」という形で、私たちの体験世界が自然に包まれている中で展開されていることも表現しております。

このような世界では、近代的自我も溶けていっているように感じます。

文学がまた、こうしてライフストレス研究を支えてくれるように感じてます。