ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

自己中心性

やっと、このところ迷っていた問題の根っこにたどり着いた。

自分が、すべての「世界」だと思っていたのは、自分が構成した「願望世界」であって、しかも、その背後には不可知の世界があり、むしろ、自分の精神の故郷はそこにあるのだと書いてきた。

この考え方は科学ではなく、人間学の帰結であると書いた。

その一方で「主体性」を高めていくことが「生命」「生活」「人生」にとって重要だと再確認してきていた。

私は、「自己中心性」と「自我」の関係について整理してきたのだときづく。

現代では、他者や集団の空気を読まずに、自分の意志を通した「言動」へは、「自己中」であると批判される。あるいは、自分の気持ちを汲んでくれずに、相手が自分の意志を通すと「自己中」だと言われる。

まるで、お互いに自分の意志を抑えて相手に合わせるのだという密約でもあるかに。

しかし、そのような他者の視線や評価に「反応」するような生き方は、まるで、物質のようなもので、自分の側から出てくる新しい言動、精神の故郷の表現としての生き方とは、真逆のものである。

私たちには、相手の言動、周囲の動きに対して、ワンパターンではない、多様な言動の自由がある。

その柔らかさ、自由、深さが「人間の持つ力」であって、相手を不快にしないパターン的な反応であれば、プログラム化してAI(人工知能)に学習させることも可能だと思う。

ところが、一方では、人間のストレス、苦、人間関係の不調和は、自己中心的な「自我」に基づくという考え方もあるため、自分の我をおさえて、相手のことを配慮して生きれば、うまくいくはずだと実践している人も多いだろう。

しかし、それらの人は、精神的な疲労、相手に振り回されて自分の人生での大切なものが蓄積できずに、相手が変わることもなく、むしろ自己中な人よりも高いストレス、苦しみを抱えている。

ただ、以前も書いたが、このような場合、加害者と被害者がいるのではなくて、お互いが自分の正しさを保ちつつ、攻撃側と守備側にわかれて、延々と試合を続けているようなもので、お互いに「自我」を強く出しているのだ。

つまり、「自己中心性」と「主体性」と「自我」の関係が不明確になっているのが、現代社会だと思う。

自分を中心に置くという本当の意味は、大きな球体があったとき、その重心が自分であり、全体を支えている姿である。あるいはコマの中心のように無理なく回っている姿。

この重心からはずれて、ここが中心だと定めて自分を置くと、この球体は勝手に回りだし、自分も振り回されることになる。

前者が「主体性」であり、後者が「自我」である。

全体を視野において中心を定める姿勢と、自分が選んだ「部分」を対象に中心を定める姿勢の違いである。

他者からみて、「あなたは自己中心的だ」と批判しているのは、実は、あなたの対象としている世界に私が入っていないという意味である。

自我とは、「固定化」「選別」「偏り」のことである。

全体や真実に目をむけず、自分が望んでいること、見たいことに目をむけて、その中心であろうとすることだ。

しかし、それは全体からみれば、重心でもなんでもなく、勝手な「点」である。

自我は、自分にはこのようにしか見えない、思えない、語れない、行動できない・・という固定されたワンパターンの反応を支えているものだ。

願望世界と「自我」はセットであると書いてきた。

願望に生きている人、現実を認めない人、区別して一方を偏愛している人、うまくいかないことを自分で引き受けずに他者や環境のせいにする人。それが「自我」にとらわれている人だ。

それに対して、主体性の高い人は、自分の力で変化することができる。望まない出来事が現れたときに、それにどのように向き合うかを、自分でみて、考えて、決めて、行動して、その結果を受け入れて、次に進むことができる。

自分を固定するのが自我で、自分を自由に変化させることができるのが主体性だが、このようなことができるのは、この世界の背後、不可知に世界に、自分の精神の故郷があるからだと書いてきた。

自我は、不可知の世界や精神の故郷を認めない。これが自分だと思ったものを固定して、それが崩されるのを恐れている。だから、相手のせいや環境のせいにして、世界をありのままに見ることをせずに、偏ってみる。大切な自分だと思ったものを守っている。

主体性の世界では、そのような守るべき「点」、自我というものは本当はなくて、それまでの世界の古い中心だった場所だと分かっている。そして世界が大きくなり変化すると、その重心が動いていき、自分という「点」も動いていかねばならないことを知っている。

「点」とは位置であり、「面」のように実体があるわけではない。点とは「無」である。

点を自由に動かせるのは、「点」が自分ではなくて、点を動かしているのが自分だと知っているからだ。

自我は、ずっとけり続けている「石」にも愛着を持たせる。本当の自立した他者を観ることをせずに自分の延長だと見ることもある。地位や財産、事業、家や車や宝石、名誉、ありとあらゆるものを自分という「面積」に組み入れて、実体があるものだと思おうとする。

しかし、それらは自分ではない。

この記事で、ああでもない、こうでもないと書いたことをもっとシンプルに伝えること、自分で実践しやすいように組み立てていきたい。