自分を生み出す
不可知の世界である精神の故郷にある自分は全体とつながっている「分霊」であると書いてきた。
不可知という意味は、対象をとらえようとする見方では把握できないという意味である。
どこにあるかと探しても、どこにもない。
でも、この探している対象となる世界を生み出している根源として、探しているまなざしを生み出している根源として、対象を求める知ではとらえられない実感としての私がそこにある。
主体性を伸ばすとは、この実体としての私、全体とつながっている私が、日々、新たに、この世界を再構成して創造していくことであり、その映し鏡としての自分もまた変化し続けていくことである。
それに対して、願望世界と自我は、現実を無視して固定化を続けている。
そして、その固定化を阻むものを恐れ、否定し、さけようとする。
つまり、自分と自分の世界を守っているのだが、本当はそれには実体がない。
何を守っているのですかと問うてみればよい。
自分の考え、感情、思い出、習慣、見方、印象・・さらには、所有したと思っているもの、人・・
「執着だ」と批判するのはたやすいが、これが「自分」だと思い込んだ凝集の力なので、簡単にはなくならない。
仏教では、
諸行無常「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」
諸法無我「すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである」
諸行無常、諸法無我を自覚して生きることが涅槃寂静であるとされる。
このように比較してみると、同じことのようで若干のニュアンスの違いを感じる。
それは当然のことで、この記事で、不可知の世界、精神の故郷というふうに言語化することで、それは対象となり自我と願望世界に取り込まれているからだ。
なので、仏教では否定のかたちで表現することで、不可知の世界を影として浮かび上がらせている。
このあたりは、スピリチャルの方や、宗教の方が、熱心に言葉をつくして、語れば語るほど、本質からずれていくことにもつながると思う。
そして、私自身の記事にもその落とし穴がある。
古来、「神」と一致した自分、我、神とともにありと言われてきたことは、この記事に照らせば、自分を「世界」の中心におくという意味であり、しかも、この「世界」は願望世界ではなくて、自我という固定化作用をゆるめていったときに姿を現す世界である。
精神の故郷、存在の根源、大きな生命、大きな物語は、「不可知」の世界ではあるが、自我が沈静化していくことで、この世界の見え方がかわっていく。
この「中心」のことを神とよび、仏とよぶ。
それに自分を重ねることが宗教で言われていた世界ではないかと思う。