人生が語るもの
人生からの声が聞こえなくなるのは、それ以外のたくさんの声がうるさくて、かき消されてしまっているから。
他者との比較で、自分が負けたくないと考えること。
周囲からどう見られるかという評価について考えること。
過去の恥や失敗を取り戻すために何かをしようとすること。
自分の揺れ動く感情に振り回されること。
自分がこのような人間だと決めつけて、それを崩さないと考えること。
先々の不安を解消するために取り組もうとすること。
きりがないが、自分の人格、そして現在の意識を実体だと考えて、それを守りたい、傷つきたくない、という防衛的な反応が人生の声、不可知の世界の声を聞こえなくしている。
目標の実現に向かっていると自覚しているつもりでも、この「心」が満足すること、安定すること、傷つかないことを目指して動いている場合が多いかもしれない。
自分とはこの人生そのものであって、そこには同時に多くの他者の人生も重なっている。お互いが登場人物として支えあっているという自覚に立てば、あたらしい景色と、導きの声が聞こえてくるだろう。
むしろ、物質中心の世界、自分と他者が切り離された世界、自分もまた物質である肉体の中に心として閉じこめられていると考えてしまう世界、これらが人生の声を聞こえなくするという試練となって私たちは鍛えられ成長しているのだろう。
自我防衛を外すには、「人生」のなかの他者、事物と「和解」していく必要がある。
自分の人生の一部として、大切なものとして、包み込む気持ち、言動、態度によって、人生は開いていく。
むしろ、願望や目標を探ることで、上記の捉われに気づく場合が多いように思う。
なぜ、そのようなことを目指すのか、その探求の中で、それは消え去っていくこともあるだろうし、本当に人生が語り掛けていることに気づくこともあるだろう。