シュミレーション空間
人間は記憶のない乳児期には別の世界のなかで暮らしていたのだと思うが、成長のなかで「シュミレーション空間」をつくり、そのなかで暮らすようになる。
現在、私たちに見えている景色、出来事、他者、そして「自分」もすべて、このシュミレーション空間のなかにあるものだ。事物の変化や他者の行動を予測するという仕組のなかで、自分もまた他者からそのようにみられているものとして自覚されて、この空間内に存在するようになる。
しかし実際にはこの空間自体が、生まれ落ちた社会の言語、文化を受け入れて、☆自分☆が生成しているのだが、それは自覚されなくなる。
この場合の☆自分☆と、空間内の「自分」を混同していくことから、心とは何かという問題が複雑になっていく。(ここではこれ以上掘り下げないが・・)
では、人間、自分が加工する前の本当の世界はどこにあるのか。このシュミレーション世界の背後に島をつつみこむ大海のように広がっているはずであり、乳児期にはそこで生きていたはずだが、もはや戻ることはむずかしい。
島の周りは霧でつつまれ、上空には雲が広がり、私たちは島の中だけ、シュミレーション空間だけを本物だと思って暮らすしかない。
心理学では「図と地」と呼ぶが、子どもの頃から一つ一つの物を「図」として背景である「地」から区別して切り出して、それに名前をつけて記憶していく。
さらには、恒常性と呼ばれているが、その「物」が色も形も変わらないものとしてそこにあるという見え方の訓練をしていく。
本当は見る方向で形もかわり、距離によって大きさも変わり、影に入ったり照り返しのなかでは色が変わる。それを信念の力で補正している。だから、見えない背面も予想して三次元の立体が空間のなかにあるように構成している。
物理的に考えると、瞬間の景色の連続、音の連続であるはずなのに、私たちには滑らかに動いているように見て、話す言葉や歌も続いて聞こえてくる。
これは「感覚記憶」と呼ばれている働きで、一秒以下の短い時間、見た景色が記憶されており、それが現在に至る動きとして見えて、さらにはその先をシュミレーション、予測することで動きが見える。
また、音は数秒間記憶されているが、この働きがないと私たちは断裂した音を聞くだけでなってしまう。
シュミレーション空間は三次元として形成されているが、この記憶による動きによって、時間が流れているように感じるようになる。本当は車の走行をビデオにとっているように私たちは記憶しているのではなくて、ただ瞬間の流れがあるように加工してみている。
過去を材料にして、今の情報をもとに、未来を予測するというシュミレーションがここで行われていく。
人生の喜びも苦しみも、当面、この空間と無関係ではない。むしろ、この空間の特徴を熟知することが必要である。
ここでは、比較によって物事を表現する。暑いと寒い、善と悪、健康と病気、成功と失敗等々。
どうしても、その事物、他者、自分がこれからどうなるかという予測をするように、見え方が誘導していく。
過去は、予測の材料とされてしまい、今もまた、すぐに流れて過去となっていく。
このところ、人生という過去から未来へと積み重なって豊かになっていく時空を超えたものが大切だと指摘してきたが、そのような見方を阻むのが、この空間の在り方だと考えている。