ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

ドラマ・小説的な世界

私たちが暮らしている世界は、事物の変化や他者の行動を予想して自分の行動を決定するための、シュミレーション空間であると書いた。

フィクションだけでなく、ノンフィクションであれ小説やドラマに接したときに、私たちが好むのは様々な出来事や情報が「伏線」として張り巡らされていて、それが結末にむけて回収されていくことだ。

原因と結果のつらなり、因果関係が明確になっていくことが求められる。仮に不条理な出来事を描いたとしても、そのなかで主人公がどのように感じたかという妥当性がないと共感はできないだだろう。

しかし、この小説やドラマは現実とは大きく異なる点がある。それは仮に伏線として隠した出来事であっても、あらすじに無関係ではなくて、大切な情報であるが、現実では次々に日々の出来事が起きており、どれが大事な伏線で、どれが無視してよいものか、分かるようなものではない。

それを解決した時点から振り返ると、ターニングポイントとなった出来事だと分かるものだ。

小説やドラマは、そのような因果関係、流れが明らかになったものを、順序立てて表現しているのだと思う。(技術的にぼかしたり、ひそめたりはしながらも、無関係なものは排除しつつ)

このような思考法に慣れていくと、現実の世界でも、過去の出来事、今の状況をふまえて、予測、シュミレーションをすれば、結末にむけて、どのような行動をとればよいかわかるという幻想をいだくようになる。

小説やドラマでは、主人公が設定されるし、シュミレーション空間でも、自分を主人公として他者や出来事を観察して予想する。

しかし、実際には、他者もまた主人公として同様のことを考えており、出来事も自分とは関係のないところで必然としての動きを見せている。

現実には、様々な出来事が様々な結果を生み出し、その結果がさらに様々な出来事を生み出していき、それぞれの主人公がそれを自分中心に解釈して、因果関係を選び出しているに過ぎない。

私はシュミレーションの限界を知ることが大事だと思っている。暗闇を歩いていて、懐中電灯で近くを照らすように、私たちは自分の知っていることをもとに、ほんの先のことを見通せるだけだ。

ある意味、人間が人工的な社会をつくったのは、この予測、シュミレーションがしやすい状況をつくったと考えてもよい。制度、システムによって、自分の行動の結果が自明になるように設定されている。保険制度しかり、ネット空間の仕組みしかり、ゲーム内のルールもしかり・・。

しかし、その現実はその人工的な因果関係を壊そうとして、願望世界のなかに異物として現れる。

災害しかり、不慮の事故、思わぬ裏切り、事業の失敗・・予測困難性の壁がある。

では、私たちはどのような思考法によって、行動選択をしていけばよいのだろうか。

それがライフストレス研究の問いである。

当面は、私たちのストレスを生み出しているのは、私たちが暮らしている世界が、シュミレーション世界であり、願望世界であるということをしっかりと確認することだ。

その限界を知るところから次の思考法が生まれてくると考えている。