人生の目的に悩むこと
生きるとは、生命、生活、人生という三つの階層を全うすることであるが、「目的」「目標」という思考法が通用するのは、「生活」の階層であると思われる。
目的があり、その道筋には目標があり、そして「手段」があり、実践と「結果」がある。
シュミレーション世界を人間が構築しているのは、ある意味、この結果を求める姿勢からだと思う。
生活を豊かにしていくことは、一面では、生命を維持することになるが、だからといって、生活の目的、目標は生命の維持にとどまるものではない。
それは、すでに人間が生存手段を個から集団でのレベルに移しており、集団の存続、そして、個の集団への適応が生存に必須である状況だからだ。
これは細胞レベルでも起きたことで、ミトコンドリアなど酸素からエネルギーを引き出す細胞は、私たちの体細胞のなかに取り込まれて、部分として共生しているし、身体レベルでも、多種類の体内常在菌が私たちの生存を支えてくれており、共生体として私たちは存在している。
それがさらに分業という社会構造のなかで、個と個が共生している状況なのっで、生活の目標には、どうしても集団の存続、集団への適応という課題がおかれることになり、そこから間接的に、生存という目的が達成される状況になっている。
そして、さらに人生の階層になると、自分の一度限りの人生物語の意味について、価値創造、という視点が必要になるが、価値は実は自分だけの世界では生まれない。
人生を支えている、過去からの大きな文化、歴史、そして未来へのビジョンのなかで、自分の人生物語があるのだから、「生活」のレベルでの共生は、さらに人生としての共生、響き愛、照らし愛の様相を呈してくることになる。
この階層の流れは、個が集団で生きるという選択をしつつも、さらに個として意味を発見するという揺らぎを示していると思えてくる。
個と全体はこうして、一つになっていく。
何のために生きているのか。
その意味を創造していくのが人間であり、それはだれか他者が与えてくれるものでもない。
人生を育てる、自分を磨く、熟達させるという答えを用意しても、それによって、何を達成するのかというふうに、目的は手段となり、その目的はさらに上位の目的の手段となっていく、階層がある。
その階層のはては、不可知の世界につながっている。大きな物語、大きな自然、存在の根源へとつながっている。
自分を超えたものへとつながっていくのが人生の目的、目標である。
そして、それは私たちは、言語化したり、概念化できないとしても、自分の魂としては、それを知っているはずだ。
主体性の道は、自我をも超えて、不可知の世界へと私たちを開いていく。
この世界には、不必要なものはない、必然で起きている、つまり偶然はない、そして、それは私にとって必要なものであり、大切なメッセージを含んでいるのだと知らなければならない。
より、上位の目的に迫っていくのが、人間の目的、目標の在り方だと考える。
まずは、生きていくなかでの実践を通じて、自分に問うていこう。
自分の生き方としてふさわしいか、目的にかなっているかと。
「自分らしく」という意味を深めていったとき、人生の目的も明らかになっていくのではないか。
実践の中で、掘り当てていくものが目的だと思う。
このような話が、おかしいと感じるのが現代人である。
目的が先にあるから、手段があり、実践があると。
直線的な過去から未来へとつづく時間の矢という考え方。
今において目的に当てること。
もうすこし、深めていきたい。