精神の故郷
この世界を構成し創造している場所は、この世界の内にはなくて、外にある。
しかしこの三次元シュミレーション時空もまた、未来へとつづく時間の矢は永遠にむかっており、空間の広がりは無限に開かれている。
だから、この世界の外という意味は、時間と空間のはてを言うのではなくて、時間や空間の生まれる故郷のことであり、この世界からは見えないもの、不可知の世界だ。
だから、私という個体がこの世界の内部を観るようにして、いくら探しても、精神の故郷は見えはしない。
むしろ、この世界全体を観ている場所こそが精神の故郷である。
私はその意味で存在の根源であり、大きな生命であり、大きな物語である。
だから、この世界内のことで、しかも、自分という個体のことで悩むのは仕方ないとしても、そこから抜け出して異なった観方を持つことが可能である。
なぜ、仕事をするのかと、この世界内の言語で表現するのなら、生きるため、社会のため、誰かのため、自分のためというような答えもあるかもしれないが、精神の故郷からみれば、すべては表現である。
この世界を創造していくこと、本当の自分を表現すること、本当の他者に出会うこと。
では、なぜ、そのように思えないか。それは、これまでなじんできた問いと答えを手放せないからだ。
だから、自分の問いや答えを疑おう。
本質的な問いとそのための答えを持とう。
自分が何者であるか、それを知って、問いかけて、答えを出していこう。
こうして、書いていくと、私は真白になっていく。無知になっていく。
素直になっていく。
ここからはじめよう。自分らしくない答えを手放していこう。
たとえば、〇〇しないと生きていけないからという考えはどうだろう。いちいち、個体の生存、欲求の充足のためと考えないといけないのだろうか。
小人の国の神様の物語を思い出してみよう。さとりの壺をもった気持ちになってみよう。
ありがとう。すみません。感謝します・・・