ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

ライフの外側

ライフストレス研究として、生命、生活、人生という階層があることを述べてきた。

たくましくいきる、うまくいきる、よりよくいきる。

しかし、大切なことは、この「ライフ」は完結したものではないという理解である。

このライフを裏打ちしているものがあって、それぞれのライフが成立していること。

しかし、この裏打ちの世界は、私たちには「不可知」であり、それを言語で記述していくと、結局、ライフ内に取り込まれてしまい、生命をなくしてしまう。

この三次元シュミレーション時空は、「物質」を基礎にしてそこから「精神」もうまれたのだという前提だが、その意味では裏打ちしている大きな生命を物質化して定めようとするようなものだ。

詩的にいえば、不死鳥のはく製をつくるような営み。

では、このはく製が無駄なのかというとそうではなくて、こうして繰り返し、不可知の世界に意識をむけて、私の世界を見直していくことで、私の世界の見え方が変わっていく。

すなわち、自分という存在が変わっていくレッスン、訓練という意味あいがある。

この世界は不完全なものではあるが、そこに裏打ちしている生命の世界、精神の故郷の足跡はついている。

このあたりの事情を高次元でのことは、それより低次元では明らかにされないという表現もふさわしいかもしれない。

ライフの外側というと、時空のはて、無限、永遠という場所を考えるかもしれないが、それは三次元時空の極限、はてであり、そこには精神の故郷はない。

ライフの外とは、ライフを包んでいるもの、ライフでは見えないもの、全体であり、存在の根源である。

それを前提にして、この世界、ライフを見直していきること。

それを忘れなければ、科学的人間観、心理学的人間観も、それなりに有益であるし、宗教的人間観、神話的人間観もまた、種類は異なるが、それなりに有益なものである。

どのような理論、どのような解説でも、この世界、ライフを解き尽くすことはできないとあきらめることである。

その自己完結の欲望が、すべてをゆがめている。自分の知っていること、願望で、この世界を埋め尽くそうとすることは、実は違和感、異物、想定外のものを捨て去っているのだが。

日々は、新しいし、なぞに満ちている。この生において、自分がどのように暮らしていくか、それを精神の故郷から、どのように見ているのか。

つまるところ、この世界と、その映し鏡である自我との歩みは、それを包む精神の故郷によって、導かれ、育てられている。このプロセスこそが、意味あることなのだろう。

神の一部分、分霊である場所が精神の故郷であるが、その自己は、日々、世界と自我を導き育てている。そのことをどのようにとらえるか。

太陽に手をあわせ、海に心を救われる心境とは、このような「育成する者」「育成される者」の関わりによって、実現している。

背後の大きな生命の世界が、育てることを本質とするのならば、この小さな生命、この世界は、育てられることを本質とする。

育てられるものがあって、育てることができる。

子によって、親が親たりえる。

如来は、衆生の親であるが、衆生によって親になっているともいえる。

また、育てられない衆生衆生でないということからすれば、衆生は、如来によって衆生たりえている。

このような関係性がこの世界とその背後の世界の関係である。