ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

見えないもの聞こえないもの

このところ、私たちの時代には埋没してしまっている、現象の背後の世界の息遣い、気配をリアルなものにしようとあれこれ考えて書いてきた。

所詮、その裏打ちの世界は不可知の世界なのだから、あるとか、ないとか、「証明」するようなものではない。

そのような自分の意志の力、感性の力でしか、触れられないものであっても、この日々の生活、世界、自分を導き育てているのだとしたら、その意味では「リアル」である。

「物質」とか、目で見えるとか、触れられるとか、実験で再現できるとか、だれにでも共通に把握できるのか、それも一つのリアルではあるのだろう。

しかし、もうひとつのリアルとは、私のライフ、生命、生活、人生をつくっているという意味である。

この三次元シュミレーション時空だけをリアルなものだとして、それをつつみ広がっている世界を抑圧して、自分がすべてを知っている、自分がライフをつくっていると思っていきることも可能である。

あるいは、背後の精神の故郷をなくせば、そのように生きるしかないだろう。

でも、常にその願望世界には、異物のように想定外のこと、認めたくないこと、不快、不満が起きて、自分の世界は振動し安心を失っていく。

この世界と背後の世界は、二つでひとつなのに、片方をなくしたので、この世界もまた根拠を失って崩れていくことになる。

もちろん、この異物をも含めて受け入れていきること、満足して、感謝して生きること。それを賢者はすすめてくるが、どのようにしたら、そうなるかは考えてくれない。

それも、レッスンなのだ、訓練なのだ、習慣にするのだというが、一方で異物を生み出す願望世界の仕組みを温存するために、一方ではそれに伴って生じる異物を受け入れるとは、火事を起こして、それを自分で水をかけて消火しようとしているような姿にみえる。

もちろん、不可知の世界と、それぞれの願望世界について、考えをめぐらせ、それを実感していくこともまた、レッスンであり、訓練である。

つまるところ、何かを構成しなおすとか、生み出すとか、変えていくとは、このような知的、感性的、意志的な訓練である。

そして、もっとも変容につながるのは、自らの存在が何者であるかというとらえ方の変更である。

私は、かつて、法華経というお経のなかで、それまで仏にはなれないとされていた様々な人たちに、具体的に、いつ、どこで、どのような仏になると、予言を授けていき、それに涙して感激するくだりを読んで、現代人として疑問をもったことがある。

何度も生を重ね、うまれかわり、その果ての果て、そんな永遠とも思える未来において、自分が仏になるか、どうかが、今を生きる自分にとって何になるだろう。空しいだけではないかと、そのときは思ったものである。

しかし、今、考えれば、それは「存在」の転換であったのだときづく。

ずっと苦のなかにあって、仏になどなれるはずもない存在から、いつかは仏になれる存在へと。

そのような確認することもできない、見えもしない、その言説が、仮に、今の自分の生き方に影響を与えるのであれば、それはリアルなものである。

人間科学と、人間学の違いは、この記事で述べてきたような「リアル」の質の違いによるものだ。

現代人は、社会から与えられた、科学者から与えらえた、心理学者から与えらえた、他者のまなざしが与えた、自分という「存在」に苦しんでいるのだと思う。

いくら、自由に生きようとしても、その規定された「存在」から逃げ出すことができない。

所詮は、遺伝子の乗り物で、物質の塊で、脳が生み出した演算機能であって、社会のなかでの分業主体であって、経済的にはお金をかせぎ、使う存在であると。

このような「存在」規定は、私には「呪い」のように思えてくる。

人間学とは、この「呪い」をとくための新しい呪術だと言ってもよいかもしれない。

科学をも取り込み、私たちの素朴な日常感覚をも取り込み、過去からつづく人間が生み出した文化を受け継ぎ、私たちを生き生きとさせてくれる新しい物語を生み出していかねばならない。

このところの記事はそのレッスンとして取り組んでいるものだ。