ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

息をすること

主体性を高め、自我を乗り越えて、自分の「世界」を裏打ちしている背後の<不可知の世界>とバランスをとって生きること。

そのレッスンには、様々な項目がある。

たとえば、「呼吸」「筋肉」「感覚」

しかし、これらがすでに自分の「世界」・三次元シュミレーション時空のなかで、自分の身体という物質を保存するという思考パターンで理解されている。

つまり、心身の健康回復、ストレス解消のために技法化されて、「呼吸法」「筋弛緩法」「五感をつかった各種セラピー」となっている。

本来、息をすること、筋肉の緊張と弛緩、五感(見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる)には、機械的人間観を超えた、もっと深い内容がある。

肺も、筋肉も、五感も、それぞれが脳とは違ったかたちで「考える知恵」を持っている。むしろ、不可知の世界からのメッセージを多く受け取っている。

それを取り戻して生きることが、ライフストレスケアのレッスンになると考える。

たとえば、「息」であるが、緊張場面では小刻みになり吸う息がまして、さらに緊張、集中していくことになる。息の変化は、センサーのように場面を理解している。そして、それにあった心身の体勢を生み出してくれている。

(これをすべて脳という物質が行っている演算機能だと考えることもできるが、それでは、この自我の世界に閉じ込められて、不可知の世界に迫ることはできない。)

相手の呼吸と、こちらの呼吸は、武道でのやりとりだけでなく、日常でも、自他のやりとりが起きている。コミュニケーションがおきている。

そして、物質として「空気」と呼んでいるものには、植物、動物、人間のホルモンが溶け込んでいて、匂い、臭いとして自覚できなくても、確実にお互いに影響を与えている。

また、様々な細菌、ウィルスが出入りしている。人体には様々な細菌が住んでいるので、共生体ともいえるが、そこから出入りしている生物がいるということだ。健康になること、病になることも、この交流作用と、免疫の関係性とみることもできる。

好きな人と愛を交わすこと、仲間とはしゃいでいるとき、称賛のなかで感激しているとき、様々な思いが息をすることで交わされている。

もちろん、怒りや悲しみ、恐れ、それらも伝わっているはずだ。

自然界の気圧、温度、酸素濃度、二酸化炭素の濃度、息をすることで外界の自然と内界の自然が連動している。

もちろん、それは呼吸、筋肉、五感、別々の作用ではなくて、全体として外部の自然が内部の自然を導き、生かしているし、外部の自然に誘われて私たちは活動していく。

息をすることが、「人工呼吸器」と同等の肉体保存の働きだけだと見るのか、自分の精神を育て、自然や他者に開いていくものとみるか。

後者であってはじめて自我・自分の世界が不可知の世界・精神の故郷に開かれていくのだろう。

私たちは、何を吸っているのか、何を吐いているのか、なぜ呼吸をしているのか、呼吸によって何が起きているのか、そのすべてを知ってはいない。自分が知っていることで呼吸をしていると思っているのだ。

その意味で、「息をすること」もまた、不可知の世界につながっている。

筋肉も、五感も、同様であって、本当は不可知の世界からメッセージが届いているのだが、私たちは、筋肉もたんなる力を出すための繊維だと考え、五感も、脳にデータをインプットするための入口くらいにしか考えない。

見ること、聞くこと、感じることに努めたとしても、自分の知っていること、願望だけを見聞きして、それ以外の多くの事柄に私たちは触れていない。取りこぼしている。

息をすること、力を入れたり抜いたりすること、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること。この主体性をつかって、自分の固定した「世界」としか受け取れないものの、背後にあるものに触れていくことが大切なレッスンになる。

科学的人間観では、呼吸、筋肉、五感の働きがあるだけで、いくら、それらが不可知の世界に触れようとしても、それは脳が生み出した幻影であるというかもしれない。

しかし、そういうのなら、この各自の三次元シュミレーション時空もまた、脳が生み出した幻影であるということになる。

なにがリアルなのか。物質的説明が可能な、可視化されたものだけがリアルだというのか。

それでは、ライフ、すなわち、生命、生活、人生の実質に切り込んでいくことはできない。

生命はあくまで自然・バランスであり、生活は関わりであり、人生は物語である。

これらは、物質では説明しがたいものだと考えている。

生きること、ライフに迫っていこうとするとき、科学的人間観のリアルだけでは太刀打ちできなくなる。