ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

レッスンという切り口の意味

この三次元シュミレーション時空・物質を中心にして生きるにしても、不可知の世界(精神の故郷)に迫ろうとして自我と自分の世界を開こうとして生きることも、どちらが正しいとか、真実だとか議論したいのではない。

これまで記事に書いてきたことは、正しさについてではなくて、生き方の質について書いてきたのだと思っている。

この「世界」で、たくましく、うまく、よりよく生きることも、また、たやすいことではない。様々なレッスンが必要であり、ある意味、幼児期から青年期までの取り組みは、そのために使われていると言ってもよい。

そして現代社会では、いくつになっても、新しい知識、技術、制度に合わせて自分をつくりかえていく必要があるので、個体という物質と脳という物質が生み出した演算機能が自分だとしても、それを維持していくには、たえまないバージョンアップが必要なのだ。

ある意味、現在のストレスコントロールの知識や技法、健康法の数々も、この物質世界の要請として生まれてきたものである。

一見すると、「カウンセリング」は「心」を扱っているもので、この物質化という時代精神を超えたものだと思われるかもれないが、この心理学的アプローチこそ、この三次元シュミレーション世界の産物である。

この世界を自分とは分離された「環境」とみて、そのなかに「自分」という身体があって、その身体のなかに「心」があるという前提だ。

だから、「心」にできるのは、外界をどのように受け止めるか、あるいは「心」を働かせて身体を動かし行動することで外界に働きかけるか。

個体としての情報収集機能と行動の背後にある欲求・動機として扱われている。それが脳科学と相性がよいのは当然のことで、心理学は脳科学と一体化していっている。

そして、ちょうど他者の心を推測するようなチャンネルをつかって、自分の言動の記憶から、自分の心というものを仮説する。

その「内観」によって、自分の心を観察して、変化させていこうとする。「心」さえ変われば、行動が変わる、習慣が変わる、人格が変わるというふうに、問題解決のカギを個体のなかにある「心」だと考えてしまう。

これによって、外界の物質世界は自分とは切り離されて安定し、自他で共有されるものとなり、自分の心とは、自分の個体を動かしているプログラムのように扱われるようになり、カウンセリングで心を変えればよいという意味が、行動が不適応を起こしたり、行動が不全ならば、プログラムを修正すればよいというふうになっていく。

これが脳科学と合体すると、脳の機能不全、脳内神経伝達物質の変調、脳内神経ネットワークの不全というふうに、簡単に、すべてが物質化していくことになる。

以上の展開も、これまでの時代の流れのなかで、訓練、レッスンのたまものとして、生じてきたものである。このことによって、科学技術が発展して物質文明が進歩して、心もまた、個人的なものとされて、自由と個性を手にしたことになった。

しかし、これからは、また、異なったレッスンが必要だと私は考えるようになった。

カウンセリングの現場で、問題を内観によって、自分の心のトラブルだと訴える人たちを相手にしながら、違和感を感じるようになっていった。

「心を変える」という強迫観念のようなものを、おそろしく感じるようになっていった。しかも、その変える目的は、「生き辛いから」「健康になりたいから」「友達が欲しいから」・・

生きるというテーマのなかでの目的が見えなくなっている、そのための手段も見えなくなっている。

この流れのなかにあっては、私は思うような仕事ができないとあきらめることになりました。

カウンセリングの限界、ストレスケアの限界、セラピーの限界、自己啓発の限界。

すべてが、三次元シュミレーション世界で必要とされるものであって、むしろ、自我の檻を固くして、この世界だけが世界だと思わせて、背後の不可知の世界などないものだと思わせるレッスンであるのだと痛感した。

だから、何が正しいのかではなくて、新しいレッスンが必要だと考えるようになった。