ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

呼吸と身体のレッスン

仕事であれ、私生活の用事であれ、楽しみごとであれ、そのことに取り組んでいるときには、一心に取り組めばよい。

そのときには、そこに「出来事」が生じているが、自分がやっているとか、相手にしてあげているとか、それを仕上げているとか、「対象」は消え去って、つまり「物」「相手」「自分」もなくなって、そこには出来事があるだけだ。

もちろん、分解すれば、「私」「相手」「物」があり、「行動」「発言」などもあるが、その最中には一体である。

赤ちゃんがいて、離乳食を自分が食べさせているときに、「自分」「離乳食」「赤ちゃん」は分離していない。あかちゃんが口をあけ、自分の手のスプーンが差し込まれて、離乳食が飲み込まれていくということは一体の出来事である。

私が車を運転しているというが、これは、私と車を物質的に分離した見方であって、運転しているときには自分も車もない。

このような状態は、仏教では「三昧」と呼ばれているが、三次元シュミレーション時空の作用から抜け出して、ひとつの精神になっているのだから、裏打ちした不可知の世界を感じやすくなっているともいえる。

その意味では、呼吸、筋肉、五感の働きについても、三昧というふうに、自分と外界が分裂しないありようを追求すればレッスンになる。

それは「運動」や「行動」でも同じであって、ただ歩くことでも、何らかの欲求にしたがって、目的地までの移動手段として歩いている場合には、「歩く」ということに三昧にはなっておらず、心はすでに目的地にある。

ただただ歩くという行為、歩くことに集中すること、歩いている足に聞いてみる、心臓に聞いてみる、道に聞いてみる、歩くという出来事には、内界、外界をとわず、この世界のすべてがかかわっており、その結び目として「歩く」があるのだが、そこで背後の不可知の世界が感じやすくなっているかもしれない。

呼吸も吸っている、吐いているだけでなくて、目には見えない様々なものが流れ込んできて、様々なものが出ていっている、その流れをただただ続けていくことで、私たちの個体としての自我は溶けていき、世界もまた輪郭をゆるめていき、背後の不可知の世界の息遣いを感じるようになるだろう。

この記事の内容は、今日では「瞑想」として紹介されている。

それは、自分という個体がある目的のために実施する技法だと、思われているからだ。

しかし、この記事は、瞑想という技法のことではなくて、日々の生き方のことであり、レッスンでとして書いている。

その違いもまた重要なことである。

今の生き方を「瞑想」という技法で守るのは、火事を自分で起こしながら水で消火しようとしていること。

今の生き方をこの記事のように変えていくことは、火事を起こさない道を訓練していること。

そう考えている。