ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

全体を見失わない

私たちが暮らしているこの世界をどのように見るか。

この世界は、それぞれの人が生み出している独自のもので、心そのものである。この世界を構成して創造しているのが自分だとすれば、この世界のなかには自分はいない。

この世界を裏打ちしている不可知の世界に、自分自身の精神の故郷はある。

この世界は、三次元シュミレーション時空であり、人間が生存上必要で生み出したものだ。ほかの生物にはほかの世界として現れる。そのような生物ごとの「世界」が重なり、人間個人ごとの世界が重なっている。

当面、自分の世界は、自分の願望や価値観を現しており、自分中心に他者や事物の動きを予想するためのものだから、「自我」そのものだと言ってもよい。

その意味で、この世界の異物として、望まない出来事や他者が現れて、ストレスの原因になる。

ストレスとは、願望世界の「異物」としての「現実」である。

このように背景の不可知の世界は、この自分の世界に穴をあけるように、不快、不満、異物、違和感、想定外としてサインを出している。

また、自我が沈静化していくと(つまり、願望・妄念が消えていくと)この世界は違った顔を見せるようになる。

不可知の世界が、この世界を育てていることに気づいていく。

過去の偉人は、自分の妄念を絶って、この世界を見つめなおしたが、そこには不可知の世界がもうひとつの顔を見せていた。

それを「愛」「慈悲」「仁」などと説明したのだろうが、妄念・願望で「世界」をつくっているものには、見えはしない。

以上のようなこと、見え方は、正しさの追求ではなくて、レッスン・訓練だと書いてきた。

ライフストレス研究では、そのような世界の見え方という土台を動かす前に、素朴な日常的な世界の見え方のままで、取り組んでいく多くのテーマがあった。

自分自身の心身の負荷・ストレスのサインに気づくこと。

自分の内部の自然と外部の自然がつながっていることを理解して、自然性の回復につとめること。

そのためには、自分で動かせるものを適切に動かしていく「主体性」の発揮を訓練していくこと。

主体性の項目として、呼吸、筋肉、五感、行動、言葉、食事、睡眠、運動、資源、そして、関心、観察、理解、自信、自主、意味、信頼、貢献、希望があることをしり、それらをつかって、緊張と弛緩、不調和と調和の「復元」につとめる。

つまり、弾力性の向上、復元力の向上にむけて訓練していく。

ある意味、主体性の項目は、現実の出来事にどのように向き合い、受け入れて、働きかけていくかというテーマにもなる。

ライフの「生命」レベルでの対応である。

さらに、ライフの「生活」レベルでは、関わり、関係性が重要になる。自分と他者、自分と集団(家族、職場、地域・・)などのテーマである。

その意味では、自分の個性を生かす。つまり、性格、アイデンティティ、価値観を育てていくというテーマが出てくるが、それは一方では、異なった他者とどのように調和していくか、自分に注がれている他者のまなざし、社会の共同幻想的な圧力、常識という名の圧迫(ディスコース・言説)にどのように対処していくかという課題になる。

ここでは、思弁的でなく、レッスン・訓練として、「ライフスキル」を伸ばしていくというテーマが現れてくる。

問題解決、手段選択、創造的思考、批判的思考、人間関係、コミュニケーション、自己理解、他者共感、感情の安定、ストレスコントロールという10個のスキル。

狭い意味では、「ストレス対処」とは「ストレスコントロール」であるが、広い意味では、この10個のスキルの総合力によるものだ。

さらには、ライフの「人生」のレベルでは、物語性と主人公性。

つまり、人生の意味について創造していくことが重要になる。意味の喪失、虚無というストレスにどのように向き合えばよいのか。

ある意味、人生の目標というテーマでもあるが、未来に何かを生み出すために今日を生きるということは、今日が未来のための手段となってしまい、結果が出ないときに、その日々は空しいものになってしまう。

その意味で、日々、人生を創造しているという視点、日々、人生が積み重なっていくという視点が重要であり、そのなかのエピソードとして目標もあり、むしろ、目標にむかうプロセスに価値があるのであった。

しかし、この意味の創造は、個人の欲求だけでなく、社会、文化、歴史などからくみ出してくるものでもあり、その豊かさを取り戻すことが人生物語を育てることであった。

このように、ライフストレス研究は、広がりをもっている。

そして、このところ、世界の見え方のレッスンについて書いてきたが、それは、上記の記事とどのように関係するのだろうか。

それは、生命、生活、人生、それぞれの階層において、きしみ、摩擦がうまれている、一つの原因として、この世界は物質であり、自分という個体(物質)の保存・発達のために生きており、個体のなか、とりわけ脳という物質の演算機能としての「心」が欲求を生み出し、行動を制御し、ライフをつくっているというモデルのせいであるからだ。

生命、自然性への信頼は低下して、復元力、弾力性を信じれなくなり、機械の修理のように、自分の心身を扱っていくこと。また、分断された世界では、個体だけでストレス問題は完結してしまう。カウンセリングの限界もここにあった。

生活の階層では、個がバラバラになって、市場経済をつうじて、道具的につながり、お金を生み出し、使うことが重要になり、他者との関わりも、取引になる。また、心が脳の機能だとすれば、他者のプログラムなどわかるはずもなく、ブラックボックスになり、疑いと不信の世界になる。

そうして、他者を自分の世界の基準でさばいて、不快、不満をお互いに感じるようになり、本当の意味で受け入れることができない。

もとより、人生の階層では、物質としての自分は、何のために生きているのか、分からない。「死」に対する物語が全くないのだ。

個体の保存、欲求の充足のためということになるが、それがうまくいかなくなると、生きている意味が見えなくなる。成功すればよいが失敗したときの支えがない。何かを失ったときの喪失感をうめるものがない。

そして、どんなに老いや死にあらがっても、確実にそれらはやってくる。

そのときに、物質的な人間観ではどのように意味を見出すのだろうか。そして、その反動として、願望や幻想を集団で共同的に支えあって乗り切ろうとする。今の自分が死後もつづくと信じるのだ。

たくさんの、慰めの物語がうまれて、集団ごとに、個人ごとに、信じようとしているが、現実のまえに、その幻想は吹き飛んでしまう。

このところの、世界の見え方のレッスンは、上記の問題を乗り越えるために考察してきたものである。

だから、もとに戻って、自然の復元力、他者との関係性、人生物語の創造にむかって生きていくことが大事なのだ。

舞台設営がおかしかったので、別の舞台をつくっていただけで、それで何かを成し遂げたわけでもない、大切なのは、そこでまた、お芝居を上演することだ。

ライフストレスの問題でも、一部にこだわってはいけない。

裏打ちしている不可知の世界との交流をふまえたうえで、以前と同じようにストレス問題に向き合っていくのだ。

外見上は、同じに見えるかもしれないが、それが違っていると私は信じている。

おまけであるが、死については、最近の考察からは次のように考えている。

今の自分とは物質としての身体ではなくて、この自分が見ている三次元時空としての「世界」のことだから、死によって、この「世界」(つまり自分)は時間の流れのなかで完成してとどまる。死とは完成のことだ。(これ以上、積み重なっていかない。)

しかし、一方で、この世界を創造していた不可知の世界の自分は、時間の流れのなかにはないので、ずっと変わらない。ただし、不可知の世界については、わからないし、説明できない。

他者の世界で、私の身体という物質が死によって火葬されているという出来事が見られるが、それは他者の三次元時空でのありようである。このことと、私の世界・自分の完成=死ということは、別のことであって同一視してはいけないと考えている。