ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

「世界」が変わる

私たちは、暮らしのなかで、何かを生み出していこうとする。

自分にとってよいと思う方向にむけて、事物、他者、自分を動かしていこうとする。

そして、その結果として、自分の「世界」が変わっていくと考える。

自分なりの三次元時空にあって、なにか「対象」を動かしていこうとする。

たとえれば、積み木があって、それを積み替えて、いろいろなものを壊しては創る、つまり、変化させていくこと。

しかし、もうひとつの考え方は、この「世界」は物質ではなくて、裏打ちしている「不可知の世界」の表現であって、この世界が自分の心であり、その精神の故郷は裏打ちした世界であるということだ。

ここにおいて、世界を変えるとは、自分の心を変えることと同じ意味になるし、それが可能なのは、不可知の世界の精神の故郷の働きのおかげであるということになる。

つまり、この「世界」は、世界内の自分という肉体とそのなかの脳の働きとしての心を自分だと考えると、自己中心的で、自分の願望で解釈された世界として姿を現す。

そして、自分が望まない事柄、他者、自分自身、すべてが不快、不満、不都合、失望、想定外のこととして、「苦」、「ストレス」になってしまう。

一方で、この自分に見えている「世界」全体は自分が構成し生み出しているのだと考えると、この世界のなかには自分はいないことになり、この背後の不可知の世界にあって、この世界の創造をしていることになる。

このような不可知の世界の自分は、創造活動をしている大きな霊・神の一部分という意味で「分霊」と呼んでもよいだろう。

この自我ともいえる世界から、妄念を去り、願望をさり、執着を去っていったとき、この世界は、不可知の世界をそのまま映し出すこととなり、大心霊の建設活動、表現、創造としての姿を現し、そこには調和と正義、慈悲が見えてくるだろう。

つまり、積み木のように世界内物質を動かすことが、世界を変えることではなくて、自分の自我を乗り越えていくことで、この「世界」自体が姿を変えていくことこそが、世界を変えていくことだと、古の聖賢は言ったのだと思う。

しかし、この二つの見え方は、相反するものではなくて、物質を動かしていく道が、この分霊の働きにそったものであればよいということになり、これは物質生活と精神生活の調和として、取り組んでいくべきものだ。

衆生といい、仏というも、住んでいる「世界」の違いであり、不可知の世界の「浸透」のいかんによって違ってくるだけだと思う。

悟り、涅槃、品性、徳、天爵・・

この個人的願望世界が、裏打ちしている不可知の世界が浸透してきて、慈悲、正義、愛といったもので満ちているように変化していったとき、その「世界」を、そのように呼びならわしているのだろう。

世界の変え方という視点から見えてくるものがある。