ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

現実性とは何か

これまでのストレス相談のなかで心掛けてきたことは、「現実的」であることだった。

観念的であることへの警戒感。

これは自我が自己防衛するときの手立てとして、現実をゆがめること、現実を抽象して観念化することへの対抗である。

現実のゆがめ方についても、自分に都合のよい、自分の仮説を裏付ける出来事を集めて、不都合なものは考慮しないとか、出来事の解釈を変えるとか、様々な方法をとっている。

ましてや、観念化にいたっては、どのような出来事からそれが生まれたのか、もはや、分からないくらいに、「信念」になっている。

このような傾向を砕くには、具体的な出来事を違った視点から見ていくようなワークが必要になる。

だから、援助者は、具体性、現実性を重視して関わることになる。

しかし、そもそも、「心」という目には見えないものを扱うときに、相手が、内省によって、つまり他者の言動を記憶してそこから「心」を推測するような方法で、自分の「心」を生み出している。

自分の世界観で、他者を観ているのだが、他者もそのように自分を見ていると思う。だから、自分が仮定している他者の目で、自分の心を構成しているということだ。

この心をまるで現実のように扱って悩む人がいる。なぜ、このような心なのか、なぜ、あのような心にならないのか。

記憶と、特定の視点で形成したものは、出来事や視点が変わらない限り、変化するはずがない。

それを、「心」というものを実在だと考えて、対話のなかで変えてほしいという。心理療法への願望である。

実は、変えられるのは、これからの出来事、過去の出来事の解釈の変更、過去の出来事の取捨選択の変更、そして、解釈のもとになっている自分の世界観、自我のくせなど。

つまり、「心を変える」というのは、現実的ではなくて、観念的なテーマだと考える。

実際には、「認知」や「行動」をかえて、ストレス、不快、苦、不適応を解消していく取り組みがあるというが、それは心を変えたのではなくて、上記の「出来事」「出来事の解釈」を変えていったということだ。

ここで考えたいのは、そのような現実的な対応が、所詮、相手の「世界」「自我」を前提として、その内部秩序の修正や調和として行われていることで、カウンセリングとは、その「流動性」の促進にむけての援助に過ぎないということだ。

もちろん、パーソナリティ障害などの患者に、さらに奥深いところの認知、つまりスキーマといわれる段階に介入している心理療法家もいるが、それはもはや認知の修正というよりは、「育てなおし」「再養育」という課題であって、援助者は、「出来事」の構成者として深く関わり、年月をかけて「世界」の変化を目指すことになる。

こうなると、はたして、健康や適応、生き辛さの解消のために、人格も再養育という課題を他者が行ってよいのか、という倫理的な問題や、仕事としての援助の限界という問題も見えてくる。

では、逆に、「世界」「人格」にふれることなく、適応のための解釈、記憶の選択、新しい出来事の創出などにかかわるだけでよいのかという反省もある。

私は、健康のため、生きやすくする、適応のため、という理由で、人格に介入するということは本末転倒だと考える。

人間にとって、人格の完成、成長というテーマは、もっと生きる意味と直結していて、人としてどのように生きればよいかという課題ともつながる。

それを健康や成功、人間関係、不満、ストレスというテーマのために、かえていくのは、順番が逆であると考えている。