ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

変容の目的

ストレス面談によって、相手の変容が起きるとして、それは何のために介入をするのだろうか。

一般的には、ストレス、苦、不満、問題といったものの解消を目指したときに、相手を変える、環境を変える、出来事自体を変えるという取り組みを志すが、そのシュミレーションと実行がうまくいかず、失敗することになる。

そのときに、今度はストレス、苦、不満、問題は、そのまま外部ではどうしようもないこととして、内面化されて、「心の問題」だとされていく。

そして、この「心の問題」を解決するために、認知や行動の変容、ひいてはパ−ソナリティの変容を目指すのだという。

こうして、心理療法やカウンセリングは、健康、不調、不適応などの解決のために、自分を変えるという視点を迫ってくる。

ここで大切なことは、「変容」の目的であり、動機である。

外界の不満は、このようにありたいという自我が生み出した「世界」内において、望まない「異物」として現れる出来事、他者、自分によって起きるのだから、究極的には、自我の作用である。

適応促進、問題解決のために現実性のある、応用性のある「世界」と「自我」を育成していくことは無駄でもないし、必要なことではあるが、それを変容の目的としていくと、ますます、自我は強固になり、知恵をつけて、自らに自信をもって、「自分」が人生をつくっていると思うようになるだろう。

それのどこがいけないのだと思うところが、現代社会の偏りの深さである。

生存のために、快適な生活のために、健康のために、調和した人間関係のために、成功のために、どのように生きればよいかという取り組みのことである。

自分が求めているものを得たいという願望のために、自己改造を続けていくのである。

求めるもののために、人生を手段とする、自分の人格も手段とする、日々の時間も、いのちも手段とする。そのような生き方である。

だから、そうして、自分を変えてきた、つくってきたのに、求めたものが得られない、苦しみが続いている、生き辛い、安心もない、希望がもてない。そのようなときに、さらに自分をかえて、それを得ようとする。

禁断の魔法を使いすぎて、もはや術者が破滅しているような姿。

なぜ、こうなったのか。

それは求めるもののために、自分を道具化、手段化したからだ。

自分よりも、健康、成功、満足、勝利、それらを大切にしたのだ。

つまり、「自分」とは何かという前提の違いである。

自分とは身体であれば、健康、快適、満足などを与えることが生きる目的となる。

また、自分とは社会のなかでの立場、職業、評価などであるとするならが、それらの取得、成功が生きる目的となる。

自分とは、自分の「心」であるとするならば、その安寧、満足、幸福感が生きる目的となる。

そして、この考え方は、マズローの基本的欲求の段階でいうように、現代では当たり前のこととされている。

つまり、健康、職業、立場、仲間、心の安心満足などを失うことが、自分を失うことと同義になってしまう。

そして、カウンセリングがそれを支えているのだとすれば、まさしく現代的な要請に応えた術なのだろう。

それは一方で、本当の自分は何かということも見失うことにつながっていると思う。