主体性の本質
健康であるとか、社会に適応して、成功しているとか、そのような現象と「主体性」は別の視点だと思う。
かりに、失敗し、不適応を起こして、病気であっても「主体性」を失わないことは可能だ。
臨床心理学でも「主体性」の回復を面談の目的にするという意見もあるが、一方で、理論的には、適応促進と発達の両方を視野においた援助になるという。
また、個人差などは、人間を外部から観察して見えるもので、これを自分に適用して、自己改造をはかろうとするのは、主体性ではなくて、他者の目による変容、つまり、適応にむけての発達ということになる。
このように、主体性にまつわる理論的な混乱は、心理学が科学であろうとするあまり、他者の観察という視点から学問を構築したためである。
例えば、人間に基本的欲求の段階があるとしたマズローにしても、それが正しいとして、「私」は、主体的にどのように生きればよいのか、という答えを示してはくれない。
むしろ、経済学や心理学が、個人としての欲求で、人間が動いているというモデルを示したことで、私たちは、「欲求に従って行動する」という主体性を表現することとなり、そうなると、欲求不満、葛藤、自我防衛機制という影の部分もまた見出すことになる。
つまり、人間が欲求に従って生きるとすれば、という前提の議論が、まるで、それ以外の選択を許さない真理のように見せかけてくる。
いや、このような理論は、さらに脳科学のような物質的因果論となって、私たちの自由意志もまた疑わしいというふうに思わせてくるのだから、「主体性」など幻想だと思うのではないか。
それに対して、ライフストレス研究では、主体性はとても重要なものだと考えられており、それを中心に諸理論を組み立てなおさねばならない。
ストレスが過剰になると、心身が思うように動かなくなるが、たとえば、筋肉を緩めたいのに緊張したままだとか、呼吸をしたいのに息がうまくはけないとか。
これもまた、本来、動かせるものが動かなくなることは主体性の喪失といっていいだろう。
あるいは、心にしても、固定されて、そうとしか思えない、新しい感じ方ができないということになると、それもまた主体性をなくしていることになるだろう。
ここにおいて、主体性の喪失のメカニズム、そこからの回復の手段というテーマが出てくる。
シュミレーション世界への耽溺と、不可知の世界を見失うこともまた、主体性の喪失としてとらえたい。
神や仏を信じるというテーマでも、集団でお互いを見張りながら、外部集団を敵視しながら維持するような信仰は、主体性を欠いたものだろう。なにかの条件がはずれると、とたんに崩れるものを無理に固定しているのだから。
それに対して、他者がどのように思おうが、結果がどうであろうが、自分の主体性をもって信じるという力こそが本当の信仰であると思う。
親鸞上人が、法然上人のことを信じて、地獄に落ちようがついていくといった言葉のすさまじさ。
ご利益、結果、自分の理解、分別などではなくて、主体性の力をつかって、ただただ、信じていったこと。
実は、科学的思考もまた、このような無条件の信じる力によって維持されている。自然界が一つの統一された法則で動いていて同じ条件であれば同じ結果が再現されるという仮説を信じているから成立している。この自然の斉一性については証明することはできない。
物質界もまた、主体性の力によって支えられている。
主体性がゆらぐとき、何かに頼っていたことにきづく、そして、その頼ったものは実は頼りにならないものだとも。
そして、さらに主体性を高めていくしかなくなる。
ちょうど、風がつよくなっていったとき、自分が樹木だとしたら、つっかえ棒が、何本も括り付けてあったのが、とれていく姿、そのたびに、ショックはあるが、その分、根も幹も強くなっていく。
このような主体性の向上の道を人生としてみてはどうか。
もちろん、生物的には、弱っていき、病にもなり、最後は死に瀕するのだが、そのなかでも主体性は増していくのではないか。
なにか、すがっているものを手放した分だけ、強くなっていくのではないか。主体性は依存からの脱却として表現される。
自分を大きな同心円の外において、そこから見ていたときには、それらにどのように対処すればよいのかと悩んだだろう。
しかし、同心円のなかに次第に入り込んで、そこを中心だと考えれば、それは外でも内でもなく、自分の主体性であることにきづく。
そうして、発見した世界があれば、さらにその同心円の中心に進んでいくことが道ではないのか。
この主体性とは、たゆまない受容の旅でもあり、行動や実現の旅でもあり、視野の拡大でもある。
中心の力。
シュミレーション世界が願望や自我に満ちていれば、他者や出来事が異物とみえるだろう。
その場合に、なぜ、他者の世界から自分を見直すのか、出来事全体のなかで自分を置きなおすのか。
それは自分の世界の自我性を緩めるためである。
間違った主体性、幻の主体性を砕いて、本当の主体性に導くことで、この世界は違った姿を見せるようになる。
不可知の世界や精神の故郷といっても、それは主体性をつかって、自我を乗り越えて、自分の力で見出し、構成するものである。
ひとつ、占星術や、スピリチャル、精神世界の専門家が、この不可知の世界について語るときの特徴がある。そして、それは私が語るときもまた同様だと思う。
それは、言葉が増えていくことである。極端な饒舌。
自分の主体性をつかって、言葉を駆使して、その世界を創造している姿だと思う。
その言葉がその人の不可知の世界にかかわる主体性の運動であるのだから。
しかし、饒舌にならずとも、自我をゆるめ、不可知の世界、精神の世界を強めていく道はあると信じている。
むしろ、シュミレーション世界という言葉を、新しい呪術的な世界の言葉で差異化しているのであって、不可知の世界は、やはり、本当は言語化できない、ものではないか。
しかし本当はだれもが知っている、身近なものだと思っている。
新しい呪術的な世界の言葉は、ひとつの解毒薬であるように思う。
主体性の世界とは、上記に示したような、あくなき「運動」の別名であり、固定化されたときから本当はなくなっていくもので、まさに「生命」のことだと思う。
生命は、調和とか、成長とか、バランス、有機的秩序だとか説明されるが、それは客観的観察によるものであって、成長しよう、調和しよう・・という実践としては不十分な説明だと思う。
なぜなら、調和と不調和、進化と退化、成長と退行、バランスとアンバランス、秩序と無秩序というように、それは運動の光と影の見え方であり、両方で支えあっている。
主体性は、この運動を進む力である。
主体性をなくすと、この運動の中心をなくしていく。
自由の主体がなくなっていく。
仏と衆生もまたバランスであり、そこに主体性が中心としてある。
品性の完成というが、この品性の中心にあるのが主体性である。
興味深いのは、「中心」という点には位置があるだけで面積がないように、主体性もまた実体ではなくて、運動の中心点であり、その意味で動いていく。
私たちは、全体の部分、因子であるが、それが中心へと働くと、全体になる。
ふりまわさえて、支配されて、動かされているのが、中心にすわったときから全体になる。
台風の目のように、静かな、静寂の中心になる。
これまで、自分を中心におく自己中心性が問題だとされて、大きな中心をすえて、その周りを動いているのが自分だと思おうとすることで、自我を緩めることがすすめられていた。
その中心が、神、仏、先祖、大地、王、その時代によって変わってきたのだろう。現代では「お金」かもしれないが・・
しかし、自我は中心だから起きるのではなくて、全体のなかで、これが自分だと区分して固定してそれを守ろうとしたときに、摩擦を生み出すものだ。
中心でないところを中心だと考えて回すから、摩擦が起きるのだと思う。
自我は偽の中心を妄信すること。自我の離脱と主体性の向上は、本当の中心へとむかっていくこと。