ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

世界を美しくする

私たちは大人になると、子どもの頃の自分の「世界」を忘れてしまう。

大人からみると本当に狭い世界である。

登場人物も家族や親戚、近所の人、学校での先生や生徒仲間、バスにも乗れないときには、世界は行ったことがある場所が点のように散らばっていて方角も距離もよくわからない。

体験していないことがたくさんあって、登場人物たちの話から想像はするものの、よくわからない。

インターネットを活用した情報社会になったことで、知らない世界の圧力がつよくなり、子どもの世界にも影響を与えているものの、この「狭さ」は変わらない。

そして、その狭さゆえに、大人からみると小さく思える出来事や言動が大きな事件となり、どうでもよいものや出来事が楽しかったり、美しくも見えるのだが。

大人と言葉を交わしていると、言葉のやりとりはできているが、お互いに違う世界のなかで、理解して考えている。

友人のこと、部活のこと、進学や将来のこと。大人からみれば、なぜ今しないといけないのか、やる気がない、なぜ動こうとしないのか、そんな理由で辞めるのか・・・優先順位が間違っているように見える。

子どもの世界での必然というものが大人には見えない。言葉を尽くしても、大人に見えている世界での心配が伝わらない。

このようなそれぞれの主観的な世界の大きさや形の違いは、いろいろなところで摩擦を生み出している。

働いている夫と、家事と育児をしている妻。お互いが相手の「世界」がわからず、自分の世界のなかで相手の言動を解釈しようとするとすれ違いになる。

年老いた親と子ども。年をとっていったときの主観的な「世界」は、時代の変化のなかで取り残されて、かつての価値観でまとまっており、広げたはずの経験による世界は、若い方の観ている世界とは異なる。

心身の衰えや病気によって、やれることも制限されていったとき、老人の世界は別の意味で狭く、小さく、そして固くなっていくだろう。

言葉を交わしていても同じように理解して考えているわけではない。そのことによる摩擦がどれほど多いことか。

これまで書いてきたように、この願望世界、そしてその中でこれが私だと定めたものが自分だとすると、誰かと生きるということは、摩擦、自我のぶつかり合いになるしかないことになる。

仮に表面的には、調和しているように見えても、内面で隠しているだけで、「我慢」している。

そうではなくて、この世界を生み出しているのが自分だとすれば、自分はこの世界の中にはいない。むしろ、この世界の背後の精神の故郷にあるはずだ。

相手を見るときに、この願望世界と自我を観るのか、それを生み出している背後の精神を観るのか。

年をとっていくことの意味があるとするならば、この大きくなった「願望世界」と「自我」が、次第に崩れていくなかで、より精神としての自分を輝かせていくことだと思う。

そして、その精神の力、主体性の力で、この生み出した世界を「美しく」することだと思う。

真善美は、人間の世界では届かぬ遠いものではあるが、それを少しでも自分の「世界」に実現していくこと。

年老いて、身体も衰え、能力も衰え、世界が崩れて狭くなったとしても、自分が生み出している日々は、毎日が新しく、そして感謝と感動であること、喜びと安心があること、そして美がそこにあること。

主体性を伸ばしていく訓練は、この願望世界の姿をつくりかえ、自我をも乗り越えると書いてきたが、それは老境にいたって、花開くものでもあると信じている。

人は、地獄や天国がどこか、遠いところ、死後にあると思っているが、この精神の世界のありようとしては、生きているときに、不安で、苦しく、喜びもなく、不信に満ちた生に陥ることもあれば、環境や身体の状況としては厳しくとも、精神の世界のありようとしては、安心、喜び、愛情、感謝、感動の生もありえて、それを地獄とか天国とか呼んでもよいと思っている。

死後の世界とは、遠い未来のことではなくて、この肉体や願望世界を包んでいる精神の世界のありようなのではないか。

このような主体性の訓練が人生でどれほど大切かわからない。

しかし、実際には、崩れていく願望世界を立て直すために、問題解決をめざし、お金をためて、他者に求めて、自分を被害者にしていくか、あくまで物質的な幸福を求めて押し通していくか、そのような取り組みがほとんどで、自分の世界を美しくする精神の力などには関心がないというのが実情である。

高齢社会がやってきているが、その意味も、この記事から読み取れるかと思う。ある一面では、「地獄」であり、ある一面では「天国」である。

どちらになるか、それは今からの取り組みによって決まるのではないか。

ライフストレス研究は、そのために進めていくものでもある。