ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

主体性の発揮と「世界」

私が記事で書いているようなことは、人間学としてさほど新しいものではなくて、古くから言われてきたことに過ぎない。

しかし現代において、それが忘れられて、主体性を伸ばしていく訓練がおざなりになっているから強調しているだけだ。

飛べない鳥というたとえもしたが、自分がどのような存在であるかという前提、信念が間違っていることが問題だとも書いてきた。

市場経済のモデルで、個人は欲求を満たして生きる存在だと定義され、さらに心理学のモデルで、その欲求が整理されて、具体化された。そして、脳科学は、それが身体という物質、とりわけ脳が生み出している演算であるとした。

ここにおいて、人間は物質化して、「心」とは欲求を満たそうとするシステムであり、自分とは、このシステムに記憶された情報のようなものだとされていった。

だから、脳のコンディションを良好にする取り組みが重要だと思われている。

これは、ひとつの前提から導かれる必然として出現したものだ。

それに対して、科学が主張するような客観的な三次元空間というものはなくて、それぞれが主観的に世界を構成しており、そこでは物と心とは分かれていない。嫌いなカエルが見えるだけで、中立的なカエルがあってそれを嫌いだと評価しているのではない。

むしろ、多くの人の主観的世界のなかで、共有できるもの、共通しているものを、抜き出して、それを「物質」だと決めて、その残りをそれぞれの「心」だとしているだけだと考える。

この立場によれば、主観的世界の中の「物質としての身体」と「付随する心」が自分なのではなくて、この世界を生み出している主体が自分である。

「世界」の中には自分はいない。むしろ、世界の背後、不可知の世界、精神の故郷にあるのが自分だと考える。

だからこそ、世界を変えることができる。世界を真善美に近づけていくことができる。

前段が科学的人間観、後段が哲学的・人間学的人間観。

主体性の発揮という言葉をつかっても、前者では、欲求を満たそうと行動することと受け取る。そしてそれが挫折して不満にあるときに、「主体性」と言われると、無理なことを言うと反発する。

後者では、主体性の発揮といわれると、世界での出来事の変容のことだと分かるので、他者の言動や出来事に対して、異なった受け止め方、感じ方、考え方ができると知っていて、その訓練をしている。

私がかつて学んだバランスセラピーでは、前者を「ベーシック」、後者は「アドバンス」として分けて二つの方向性から説明してある。

たしかに、どちらが正しいかではなくて、両方の見方を統合していくことが大切なのだろう。

その意味では、心理学的、脳科学的説明は、「世界内」の言語での記述として、哲学的・人間学的説明は、「世界」の背後へと迫るための言葉として、同じことを言っているのかもしれない。

おそらく、世界内の見えるものだけを正しいこととして、背後の不可知の世界に在る自分を認めないという偏りが弊害を生んでいるのだろう。