ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

心のある道

自我と主体性の関係についてはすでに書いた。

自我の本質は自己中心性にあるのではない。

それが全体と重心の関係ではなくて、しかも、特定の点は位置を示すだけで面積がないはずなのに、「これが自分だ」というものを取り込んで広げて実体化して固定化するところにあるのだと書いた。

その面積化、領域化、所有化、なわばり意識、そこからくる防衛と敵対。

それを理論化したのが、「心理学」であって、最初はおそるおそる「仮説的構成概念」だと断りながら、観察できる行動、言動から、実体としての「心」を構成する手伝いを行っていった。

他者とは異なった「心」が各自にある。その個人差を研究し、気質、性格、人格が異なったものであるという理論を積み上げていった。

そして、行動の背景には、欲求(動機)があり、欲求の矛盾による葛藤、あるいは、欲求が満たされないと欲求不満になり、その解消としての行動化、あるいは自己防衛的な反応(防衛機制)があるとした。

たしかに、私たちが他者を観察して、他者の心を予測するときの素朴なやり方も同じようなものであって、それが理論化されたことで有益なこともあるだろう。

しかし、この見方を自分自身に当てはめるとどうなるか。

その場合の自分とは何なのか。

他者や全体の環境から切り離された「個としての心」だとされている。

そして、その実態は欲求であるとされた。もちろん、市場経済のなかでは、人は生産活動に従事してお金を手にいれて、そのお金でほしいものを消費する個体だと定義づけられているのだから、経済学を心理学が裏打ちしたことになる。

このような前提では、自分の心とは「自分の願い」「自分の願いがかなわない苦悩」だとされる。

だから、自分を分かってほしいとは、自分が何を望んでいるか、それがかなった喜び、それがかなわなかった苦しみを理解してほしいということになる。

もっと踏み込んで言うと、自分の願いを叶えてくれること、苦悩を取り去ってくれること。という意味になる。

しかし、本当は「心」はもっと柔軟であり、様々な姿を見せることができるし、可能性に満ちたものである。

心理学のいう「心」と、人間が古くから大切にしてきた「心」とは違ったものを示しているようにも思えてくる。

心のある道をあるくとは、何かを求めてその結果で一喜一憂するのではなくて、何かをしていることがそのまま豊かさであり美であり、その過程を進んでいくことが幸福である道だ。

それは、人間が点から面へと自分の領土を所有しようと広げて、それを失わないために歩く自我の道とは異なったものだ。

精神の故郷にある自分が、この世界を構成し生み出しているのだとすれば、そのなかをしっかりと歩いていくこと自体が旅であり自分に出会うことだろう。

このように、心のある道は、心理学的人間観の反動として示すしか、今の私にはできないが、本当は、心のある道を実践しながら、相応の理論化ができるものだと思っている。

なぜなら、しょせん、今の心理学は、行動科学であり、観察できる行動、言動、心理テストから構成したものなのだから、自分の行動、言動、心のありようが変わっていけば、そこに新しく構成される理論が生まれてくるはずだからだ。

つまり、心理学が観察対象としてきた私たち人間がそのような生き方をしていたということだと思う。