心理学的人間観とカウンセリング
本来は点として面積はなく、位置を示している中心が自分であると書いた。
しかし、この「世界」を構成し生み出しているのが自分であるのだから、この世界のなかには、これが自分だというものはない。
しかし社会生活の要請上、原始生活では私有財産という考え方はなかったはずだが、今や、この物質世界は、「俺のもの」で分割されてしまった。
しかも、それを他者と比べて、自分のほうが大きい、すばらしいというところに、喜びを置くとしたら、ずいぶん、人生は異質のものになっていくだろう。
かつてすべて神のものであったものを人が使わせてもらっていたという価値観からすると、人は神からすべてを盗んで、俺のものだと分けたのだともいえる。
この身体でさえ、かつては、神からの借り物であると考えられていた。
いずれにしても、自分を面積化して、固体化して、それを広げ、守るという自我の争いの時代にあって、法律も、制度も、文化も、それを裏打ちしているのだから、「心」には違う可能性があると言っても、もはや、手遅れなのだろうか。
しかし、たとえば、自分の世界で、美しい紅葉が見えたとして、それは他者の世界でも見えており、しかも、それぞれの美しさ、見え方がある。
心の世界では、「所有」して領土化しなくても、豊かになる道はたくさんある。
ところが、このような領土化の世界において、心理学が定義づけた「心」をもって、「カウンセリング」を行うとどうなるか。
私は20年間にわたって、臨床の場で、相談者とかかわってきたが、ある意味、本質的に心を豊かにして人生を歩くような関わりというよりは、この領土化の圧力のなかで、奪われた人、被害者、苦悩をかかえている人の支えとなってきたように思う。
このゲームのルールが、領土化と闘いであるとするのなら、そこから降りて超越することなどできずに、苦しんでいるのだ。
しかし、この記事で書きたかったのはそこではない。
たしかに、物質世界では、領有化、区別、競争ということがあったとしても、本当は、精神的な世界では、それは各自のものであって、他者に奪われたり、比べられたり、貧しくなったりするものではないはずだ。
ところが、相談内容は、物質的な喪失ではなくて、精神的な喪失の問題なのだ。
自我は、物質世界を「俺のもの」と広げていくなかで、まるで、精神もそれと同じだとばかりに、実体化させて、広げていこうとして、他者と比べて、そして、自分という精神にも失望しているのだ。
なぜ、このようなことが起きるのか。
それは、「心」が欲求だと心理学ではされたために、心の世界は、「願望世界」となっていった。
心の物質化というような問題があるように感じている。