ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

泉のように湧き出る心

自分の中から充実した心が湧いてこないということは、本来、湧き水によってできていた「井戸」が空っぽになっているような状態だ。

すると、外から雨水や泥水が入りこんでくるようになる。そして、いくらそれをせき止めようとしても、次々に別のものが入ってくる。

心配がなぜ湧いてくるかというと、他者の心を見つめて予測して分析するからだ、未来のことを願望が崩れはしないかと心のなかで試行錯誤のシュミレーションを繰り返すからだ。

そして、そのような心配を与える他者や出来事を恨むことになるが、本当の問題は、自分の中から湧き出してくる心がないことだ。それが井戸からあふれて、そこが湖になるとするならば、もはや、入り込んでくる雨や異物は問題にならなくなる。

自分が不安や心配にとらわれて、無益なシュミレーションを繰り返しているのに気付いたら、自分発のエネルギー、自分発の思いが湧き出して溢れるようにしようと考えてみることだ。

シュミレーションは、過去の記憶を材料にして、未来の予測をする作業であって、そのときには、現在、今が希薄になっている。

充実とは、今、ここにおいて溢れてくるものだ。頭で考えることと、胸で考えることの違いという言い方もするが、要は、今における言動や流れている「生」のプロセスに身を浸したときに、充実した心は湧いてくる。

悩みや不安から離れて、充実した心を溢れさせるためには、願望、過去、未来から離れて、今のこの場所へと戻ってくることだ。

あるいは、「他者の心」の予想で、自分の心がいっぱいになっているのを、切り替えて、「私はどう感じるのか、私はどうしたいのか」と主体性のある思いでいっぱいにしていくことだ。

もちろん、身体的な主体性としての、呼吸、筋肉、感覚、行動、言葉、食事、睡眠、運動、資源活用といったものを整えていくことがベースなので、充実した心が湧いてこないという場合には、これらの主体性が損なわれていないかをチェックして、何かに取り組んでいってもよい。

逆に、呼吸をすること、筋肉を緩めること、運動をすること・・・すべてが「充実感」を生み出してくれる取り組みになる。

もし、そうなっていないとするならば、それらをおざなりに、結局、不安、心配、予測で心をいっぱいにして取り組んでいるに違いない。

歩くこと、光を浴びること、森の香りをかぐこと・・それらを主体的に行えているかどうかだ。

瞑想という技法が重要なのではなくて、このような主体性を高めて没頭する生き方、瞑想的な生き方が充実した心を生み出してくれる。

もちろん、関心、観察、理解という取り込みプロセスにおいて、充実した心を意識するのなら、大切な注意点はある。

それは、この「世界」全体を自分が生み出しているということを忘れないことだ。だから、愛すべきものがあるとするならば、この「世界」とそれを背後で支えている「不可知の世界」「精神の故郷」だ。

もちろん、そこには「自分」「他者」も「社会」も入っているが、それを区分して、好きと嫌いに分けて、嫌いなものがあるから好きだと考える世界から、それを含みつつ、この「世界」を大切だと思う心が基本である。

私たちが暮らしているそれぞれの世界は、主観的なもの、自主創造的なもの、であり、それが日々、刻刻と生み出されていることへの感動が必要である。

また、安定化プロセスにおいて、自信、自主、意味があるが、この自信は他者評価、他者のまなざしや他者との比較から生まれるものではなくて、主体的に生きているという自覚からくるもので、この世界を構成し創造しているという自信が基本である。

それは、させられているというような被害者的な意識ではなくて、自分が選びとっているという自主の自覚であり、さらには、損得、成功失敗などの区分を超えて、この「世界」の出来事にはすべて意味があるという信念のことである。

もちろん、この意味を言語化すると、「世界」が進化している、愛に溢れている、自分が表現されているというふうにもいえるが、不可知の世界・精神の故郷にある自分が、この世界を生み出しているということは、そこに意味や価値があるというふうに信じてもよいと思う。

そして、働きかけのプロセスでは、信頼、貢献、希望ということがあるが、「他者」への信頼という意味は、他者がどのような人かを予測して分析して判断することではない。

自分が他者にどのような思いを持つかという主体性のテーマである。

だから、信じるということ、相手をありのままに受け入れるということは、相手の問題ではなくて、こちらの態度の問題だということ。結局、この世界を構成する一人であるということは、自分の人生物語の登場人物であり、この人がいないと舞台は完成しない。

悪役であれ、変わった人であれ、意味があり、必要があって、自分の人生に登場してくれている。

その人にどのように関りたいのか、それは自分で決めていくことが重要だと思う。

ワンパターンで、自我の反応として、相手が悪いから腹が立つ不信だということもあるが、それから反応パターンを自由に変えることのできる自由を持とう。相手を憎むこともできるのだが、そうはしないという自由がある。

貢献ということ、役立ち感。それは相手の評価を求めること、反応をみて一喜一憂することではない。自分の人生のテーマとして、この主観的な世界の創造者として、自分がこの世界に対して何をするか、だれをどのように世話するか、どうやって役立つのか。

それを自分で決めて、ほこりをもって取り組むという意志のことだ。

だから、ひょっとしたら、評価されず、喜ばれないことでも、自分でやり通すこともありうる。

誤解を受けるかもしれないが、この「貢献」や世話は、実は何でもよい。本当はこの「世界」全体の世話をしたいのだが、そうはいかないので、自分で特定の課題を選びとって取り組ませてもらっているのだ。

だから、自分がやっていることがほかのことよりも重要だとは思っていない。ほかの人がやっていることもつまらないとは思っていない。この世界のなかで、ひとつの「役割」をいただいて、熱心にやっているということだ。周囲からみると、本当に大切なことを熱心にやっているように見えるだろう。

しかし、それは、この「世界」への愛情からやっていることで、本当はこれでなくてはいけないという執着はないのである。

凡事徹底とか、一隅を照らすとか、言われてきたことは、そういう意味だと考えている。

最後に、希望であるが、希望とは、自我が領有化したものの保全や拡大のためにシュミレーションを繰り返していくこととは異なる。

希望には、そのような根拠はない。自分の中から湧いてくる、この世界への信頼であり、それを支えている不可知の世界への信頼であり、自分への信頼である。

もちろん、この三次元時空では、時間の流れというもの、直線的な時間が想定されているが、実際には、私たちが生み出している世界には、過去や未来のイメージもまた現在のなかに重ねられ、そうした今を体験している。

希望とは、時間の流れの先にむけて準備するというよりは、この時間全体が世界であり、人生であるという全体性への信頼である。

自我は固定された領有化こそが、安心であり、そこに変わらぬもの、希望を見出そうとするが、そのような希望は変化のなかで砕かれる。

むしろ、変化すること、そこに世界としての安定性、復元性、意味があるということ。この世界を愛して創造活動をしている自分がいること。それが希望である。

希望とは、関心、観察、理解という取り込み作用、自信、自主、意味という安定化作用、信頼や貢献を深めていった働きかけの中で、主体性が増大していくことによって生まれてくるもので、希望の力は主体性の集大成であるともいえる。

不安心配を取り去るという自我の要請を超えて、本記事のように泉を溢れさせていく主体性の向上が充実した心につながると考えている。